ニッポン放送の石井玄氏が、このほどエッセイ本「アフタートーク」(KADOKAWA)を発売した。本作は、「ラジオ制作や会社員にまつわる仕事論」「学生時代にラジオに救われてから業界を目指すまでの道のり」「ラジオを共に作ってきたパーソナリティ・放送作家・リスナーとのエピソード」の3つのパートで構成。深く関わった番組を語るコラム、放送作家の福田卓也氏、寺坂直毅氏、ラジオディレクター宗岡芳樹氏らとの対談などが収録されている。
ニッポン放送の深夜番組「オールナイトニッポン」ではチーフディレクターを務めていた石井氏。転機となったという「アルコ&ピースのオールナイトニッポン0(ZERO)」についてや、裏番組のTBSラジオ「JUNK」に聴取率で勝利した裏側などについて聞いた。
――今回のエッセイ本のオファーを受けた際、率直にどう感じましたか。
本にも書いたんですが、依頼を受けたときは「ちょっとよく分からない」というのが最初の感想でした(笑)。放送作家さんやパーソナリティとの対談本のようなイメージだったんですが、「そうじゃなくてエッセイでお願いしたい」という話だったので、「僕で大丈夫かな、自分のことだけで1冊になるのかな」と思いました。
――実際にエッセイを執筆してみていかがでしたか。
内面と向き合わないといけないので、結構苦労しましたね。だからエッセイを書かれた方への尊敬はとまらなかったです。自分と一緒にお仕事した方々は、若林(正恭)さんや星野(源)さん、平子(祐希)さんや相田(周二)さんなど、本を出された人がすごく多くて。読んで面白いと感じてはいましたが、ここまで執筆が大変とは思っていなかったので、改めて尊敬しなおしました。
――本に対する反応はいかがでしたか。
スタッフとしてラジオに関する取材は、今まで何本か受けたことがありましたが、もちろん自分の人となりについてしゃべることはありませんでした。なのでリスナーは、パーソナリティが僕をいじっているのを聴いて、僕の人格を想像するしかないわけで。本への感想で「天才肌でセンスでやっている人かと思ったら違った」とあったんですが、何でそんなこと感じたんだろうと思いました(笑)。
――たしかに本では「自分は天才ではない」と書かれていました。ご自身を「天才ではない」と意識するようになったきっかけはあるのですか。
学生時代から元々何かをもっているというのはなくて。サッカーをずっとやっていたんですが、小学校の6年間ずっとベンチで、「俺、サッカーの才能ないんだな」って感じましたし。高校の時も3年間ずっとベンチで、よく続けていたなと今では思います。絵を描くこととか、センスでできるものはできなかったです。兄2人は児童絵画の世界では有名な兄弟で、学生時代にもバンバン賞をとっていました。だから「石井家は絵がうまい」と思われるようになったのですが、僕はうまくないから、先生にガッカリされていたんですよ(笑)。ラジオ界にも才能ある方がたくさんいるので、この世界に入ってからも改めて「自分は才能がない」と思うようになりました。
――「才能がない」という意識のなか、仕事で結果を出すためにしたことはありますか。
「やる気」ですよね。能力は必要なく、人より多くやればいいので。たとえばAD時代、「BGMを用意して」と言われたら、普通のADが1個しか用意しないところ、3つ持っていきます。3つ持っていく人がいたら、5個持っていきます。そうすれば、「やる気があるな」と思われて、「あれもやってみろ、これもやってみろ」と仕事を振られるようになるので成長できるんです。できなくてボロカス言われることも多いと思いますが、とりあえず数を出すとのいうのは大事ですね。いっぱいやっていると、「これが良くてあれがダメ」ということも分かってきますし。「数を出して、反省して、また出す」というのは今も意識していることです。
――自分の企画を通すために、どういったことをされていましたか。
僕自身は企画力がないので、自分から出たものをぶつけるというよりは、いろんな作家さんに相談したり、あらゆる手を使いますね。とはいえ、お願いするだけだと嫌われていくだけなので(笑)、
「この企画は通らなかったけど、別の企画で一緒にやりましょう」とか、なにかでお返しすることは意識してしました。
――ディレクターとして、石井さんの転機になったと思う番組はありますか。
「アルコ&ピースのオールナイトニッポン0(ZERO)」ですかね。初めての生放送のディレクターだったので、大変で当時はよく分かってなかったんですけど、番組終了後に「あの番組があったから、今やれているんだな」と分かりました。
――そう感じた理由はどういったところにありますか。
普通のラジオは、フリートークとコーナー、2カ月に1回のスペシャルウィークというルーティンなんですけど、「アルコ&ピースのオールナイトニッポン0」は毎回、特番みたいなことをやっていたんですよ。毎週アイデアを絞り出して、自分たちで形をつくっていったのですごく鍛えられました。当時のラジオのパターンは大体やったんじゃないかという感覚でした。常にスペシャルウィークみたいなことですよね。大変でしたけど、その分リスナーも喜んでくれてた気がします。
――とはいえ、アルピーさんの番組は2016年に終了となってしまいました。著書のなかでも、当時の喪失感について書かれています。
たしかに「こんなに頑張っても終わるんだ」と思いましたし、「リスナーもたくさん応援してくれてるのに、届かなかった」という喪失感はありました。なかなか切り替えもできなかったのですが、「終わってしまった」ということだけで済まさずに、何で終わってしまったのかを研究してなんとか次につなげようとしましたね。やはり決定権がある人に対して、聴取率やイベント、グッズなどといった数字を可視化させて、「この番組が終わったら損ですよ」と伝えることが大事だなと思います。
――著書では、石井さんのチーフディレクター時代、「オールナイトニッポン」が裏番組のTBSラジオ「JUNK」で聴取率で勝利したエピソードも紹介されていました。
社内では当時、「JUNK」には勝てない前提でみんなやっていたところがあったので、自分も「JUNKに勝つぞ」とは言っていたんですが、本当に勝てる日が来るとは思わなかったです。ただ、「勝つ」と言わないと、勝てるわけがないので、自分自身もみんなも焚きつけてから、勝つためにはどうしたらいいか具体的に考えていった感じです。
――なるほど。
目標がないとどこに向かっていくべきか分からないですし、闇雲にやっても勝てません。なので「まずこの番組はどうしたらいいか」「来週の放送はどうしようか」と、短期間の目標をつくって色々と試すなかで、上手くいったものを続けていきました。
――チーフディレクターとして統括する立場にあったかと思いますが、どうようにして周りを巻き込んでいったのでしょうか。
でも、まとまらないんですよ(笑)。僕がチーフになる前は、チーフの言うことすべては聞いてなかったですし、「こういうことやれ」って言われて、ただその通りに言うことをするだけのディレクターは逆に優秀じゃなかったりもするので(笑)。でもそういうもんだと思っていたので、チーフディレクターではありながらも、まず自分自身の担当番組で結果を出すことがスタートでした。
自分が担当する「オードリーのオールナイトニッポン」や「星野源のオールナイトニッポン」で「過去最高の数字をとった」とか「裏番組に勝った」というのを見せていくことで、「結果がでると楽しいんだ」「頑張ると報われるんだ」というのを見せていきました。僕がラジオ業界に入ってから「オールナイトニッポン」は「JUNK」に勝ったことがなかったので、社内の成功体験もなかったんですよ。だからこそ、なんとか後輩たちに成功体験をつくってあげたいなという思いがありましたね。ただ数字も大事ですけど、リスナーを楽しませるというのが一番にあって、スペシャルウィークの企画や、毎回の放送も作っていくことは意識してました。
――その後石井さんはチーフディレクターという立場を離れて、現在はニッポン放送のイベント部門でご活躍されています。ディレクター時代と比べて、どういった変化がありますか。
ディレクター時代は毎週のレギュラー放送が何本もあったので、ずっと自転車を漕いでいる感覚でした。イベント事業は大きい目標が先にあって、最後に大きい花火を挙げるような作業なので、メンタル的にはおだやかですね(笑)。イベントが終わればひと息つけますし、色々と冷静に番組以外のことも考えらえる時間が増え、視野も広くなりました。
――最後に、ラジオ業界全体を盛り上げるために「こんなことをしたい」という展望があればお聞かせください。
番組そのものについては後輩のディレクターがやっていくので、それ以外のことをしていきたいです。ラジオを広げるためにはどうすべきかを考え、他の局と組んだり、今は音声コンテンツが流行っているので、ラジオ局以外とも一緒にやったりしたいです。今回の本を通しても感じたことなのですが、番組だけつくっていると放送業界の範囲内で、どうしても内へ内へといってしまうので、これからは外にも広げられるように目を向けてやっていきたいです。
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