井上尚弥は「現代のモハメド・アリ」なのかもしれない
この番組の制作にあたっては、沢木耕太郎の「敗れざる者たち」が企画をスタートさせる上でひとつのきっかけとなったことを高橋良美プロデューサーが語っていたが、筆者が本作を見て真っ先に考えたのは映画「フェイシング・アリ」のことだった。
ボクシング界のみならず、アメリカ社会に多大な影響をもたらしたレジェンドであるモハメド・アリと戦った10人のボクサーたちが、当時の記憶を振り返りながらアリの人物像を語り尽くすこの映画は、いちボクサーとしてのアリの実像を対戦相手の言葉を通してあぶり出していく作品だった。
10人のボクサーの中でも、ジョージ・フォアマンはいわゆる“キンシャサの奇跡”でアリに破れた3年後、若干28歳で引退しキリスト教の牧師へ転身。その姿は、井上との濃密な戦いを経て現在の仕事を選んだ佐野の姿とどこか重なる部分も感じられる。
井上尚弥はアリのように社会に変革をもたらすアイコンとなっているわけではないが、自身が倒した相手のその後の人生すらも輝かせてしまう太陽のような存在感は、往年のアリに匹敵するものがあるのではないだろうか。
そんな井上は、佐野や田口との戦いを経て世界3階級制覇を達成。その後、バンタム級のトップ選手が集結した「ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)」優勝を経て、現在は「主要4団体」と呼ばれるWBA、WBC、WBO、IBFの4つのベルト統一を目標に掲げるなど、さらなる伝説を打ち立てようとしている。
世界6階級制覇を成し遂げたフィリピンの英雄、マニー・パッキャオと唯一対戦した日本人である寺尾新や、10年以上ミドル級のトップ戦線でベルトを争う名王者、ゲンナジー・ゴロフキンに挑んだ淵上誠や石田順裕のように、近い将来井上と対戦したこと自体が人々の驚きと尊敬を集めるようになるかもしれない。
今回の番組において、井上尚弥の姿は試合映像といくつかの写真でしか見ることはない。にも関わらず、“怪物”と称される井上のすごさは本人のコメントよりもはるかに伝わってくる。そして、「怪物に敗れた男たち」が敗戦をどのように受け止めて前へと進んでいったのか、その過程は非常に共感できる内容となっている。
我々がボクシングを通して見ているのは、二人のボクサーの人生がリング上で交錯したほんの数十分間であり、その裏にはこれだけのドラマが潜んでいる。時には一つの敗戦で人生が暗転することもあるが、その後の人生を通していかに「負け」を「勝ち」へと変換していくことができるか。それこそが最も重要なのではないだろうか。
3月22日(火)夜9:00-10:00
BS12 トゥエルビにて放送
https://www.twellv.co.jp/program/documentary/bs12-sp/archive-bs12-sp/bs12-sp_08/