ファン心理が分からない筆者が見た「激レアさんを連れてきた。」/テレビお久しぶり#13

2022/08/26 21:30 配信

バラエティー コラム 連載

「テレビお久しぶり」(C)犬のかがやき

7年ぶりにテレビ番組を見るというライター・城戸さんが、TVerで見た番組を独特な視点で語る連載です。今回は「激レアさんを連れてきた。」(毎週月曜夜11:15 - 11:45、テレビ朝日系)をチョイス。

ファン心理が分からない筆者が見た「激レアさんを連れてきた。」


ファン心理というものが分からない。アイドルだったり、ミュージシャンだったり、芸人だったりといった、ステージに立つ表現者を客席から無条件で応援したいという気持ちを、未だかつて味わったことがない。近年では”推し”という概念もすっかり一般化したし、私だってたまに好きなバンドのライブを見に行ったりはするが、「さあ、俺は客だ。楽しませてみろ」という気持ちでずっと腕を組んでいる。自分は”ファン”である前に、”客”であることから逃れられないのだ。客席から一方的に視認するだけという関係に、愛を捧ぐことができない。金を払うなら、見返りが欲しいのである。

たとえば私は中学生の頃から鬼束ちひろのファンであるが、コンサートには一度も行ったことがない。もちろん行きたいとはずっと思っていたし、公演の情報を知らなかったというわけでもない。生でその姿を見、歌声を聞けば、間違いなく感動し、涙を流すだろうということも分かっていた。それなのに、なぜ行かなかったのか。ただなんとなく面倒くさかったからだ。

鬼束ちひろのことがもう果てしなく大好きだという感情と、”ただなんとなく面倒くさい”という感情が、なぜか同居できてしまうことに、これまで多少なりともコンプレックスを感じてきた。鬼束ちひろに限った話ではない。どんなに公開を楽しみにしていた映画でもわざわざ公開初日に見に行ったりしないし、どんなに好きなバンドでもサブスクで聞ければそれでいいし、どんなに美味いカレーでも1,000円を超えるなら食いたくない。カレーはちょっと関係ないけども、とにかく、好きなものに、金も時間も、無条件で突っ込めるという人に、憧れというか、うらやましさがある。それってつまり、”走れる”人生ってことである。たとえば意中の相手が空港から海外へ飛び立とうとしているとき、私なんかは、ナビタイムで電車を調べて「特急使えば間に合うけどたけー」とか思ってあきらめるけども、好きなものに対して犠牲を払うのをいとわない情熱あふれる人であれば、すぐに走り出し、タクシーでも何でも使ってとにかく空港へ行くだろう。そんな人生って、どんなにいいだろう。

そんな折、人気番組「激レアさんを連れてきた。」を見ていると、”ロバートへの愛がヤバすぎて小5から追いかけ続け、テレビ局に入社しちゃった人”ことシノダさんが登場した。馬場に「ロバート教の信者」と言わしめる彼は、ライブにはほぼ必ず足を運び、大学の卒業論文でもロバートを取り上げるほどの、ファンという言葉じゃ足りないくらいの人物である。

ライブでは必ずノートをとってネタを記録するという彼のノートには、服装についてのメモまである。表層から深層まですべてを記録し、愛したいというその情熱が、端的に凄い。うらやましい。秋山が繰り返し「警察に言ってないだけ」と念を押すのを見る限り、その情熱というのはよっぽどのものなのだろうが、彼の行動の是非は別として、そこまで自分を駆り立てる情熱というものは、どうやったら得ることができるのか。もしくは、彼だけに突然変異的に生まれた、私にはまだ備わっていない機能なのだろうか…。

思えば、何の情熱もない人生を送ってきた。私ほど情熱のない人間もいないだろうと思うが、情熱のあるヤツが目立っているだけで、よっぽどの人間はたいそうな情熱などなく毎日を生きているんじゃないかと思う。しかし、本当にそれでいいのだろうか。情熱がないならないでせめて、情熱への情熱だけは忘れないようにしなきゃならんのじゃないだろうか。情熱への情熱を燃やし続ける、それこそが、情熱をまだ見つけていない人間に唯一できることなのだ。俺は自分をあきらめない。瞳をメラメラ燃やしながら「何かいいことないかなー」と横になり続けてみせる…!