──そうして完成した今回のアニメ作品をご覧になって、いかがでしたか?
ドラマを作ったのは24年前で、そのときも、自分の子供のころを懐かしんでいたというか、自分にとって懐かしい世界を再現しているような感覚があったんですね。それを24年後の未来に見るというのは、懐かしさの二乗というか、何だか新鮮な感じで…。ドラえもんの世界にいるような不思議な体験をさせてもらった気がします(笑)。
──ヒロインのなずなは、ドラマで奥菜恵さんが演じていたなずなと同様、少女とも大人の女性とも違う、何とも表現しがたい色気を放っていますね。
当時の奥菜さんも年齢に似合わず、すごかったんですよね。本当に小学生に見えないくらいに色気があって。だから今回のなずなも、ドラマのなずなと全然違うという印象は受けませんでした。ただ、新房(昭之)監督の映像表現として、「これは実写では無理だな」と思ったのが、“瞳の芝居”。なずなの瞳をかなり大映しにするんですが、その瞳がちゃんと芝居してるんですよ。ルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」(1929年)とか、いくつかの映画で印象的な瞳のアップはありますけど、実写映画で、瞳にあれだけの芝居をさせるって、なかなかない気がするんです。アニメというのは、基本的に動きで表現するものなので、人物の顔には情報がないからアップの画は成立しにくい、という話をどこかで聞いたことがあるんですが、逆にこういうところに突破口があるのかな、なんて。そのくらい秀逸な表現だと思いましたね。顔のアップどころか、瞳にまで寄っていって、しかもその瞳が躍動しているんですから。とにかく今回の新房監督の表現は、挑戦的な試みがたくさん成されていると思います。アニメってこういうものだろうと固定観念を持ってる人ほど驚くような表現がいっぱい詰まっているんじゃないかなという気がします。
──その斬新な表現を見て、映像作家として嫉妬を感じることは…?
嫉妬というよりも、ただただ、新房さんらしい解釈だなと感心しました。特にすごいなと思うのは、新房さんがかつて手掛けた「魔法少女まどか☆マギカ」(2011年MBSほか)とは逆なんですよね。「―まどか☆マギカ」は、キャラクターの顔の表情を一切使っていない。登場人物がほぼ同じ造形で、髪形とか髪の色が違うだけじゃないですか。外国人から見たら全く判別できない。あえてキャラクターが記号化されているんです。つまり、顔から個性を消したわけで、そうしたキャラクターを演出するときは、顔の表情ではないところで演出をつけなければならない。だから、「―まどか☆マギカ」は、いわば“引き算”の演出が施されていたと思うんですが、今回の「打ち上げ花火―」は、逆に“足し算の演出”というか。新房監督は、これ以上の寄りの画では表現できないというアニメ表現の限界に挑戦しているのかもしれない、とさえ思いました。
──では最後に、原作者から見た、アニメ映画「打ち上げ花火―」の魅力を教えてください。
「打ち上げ花火―」というのは、僕が作り手としてドラマから映画にシフトチェンジするきっかけになった作品ですし、20代のころにずっと作り続けてきた深夜ドラマの集大成的な作品でもある。本当に、いろんなものが詰まった作品なんですね。今回のアニメ作品では、自分がこの作品に詰め込んだ思いみたいなものを、新房監督や大根さんをはじめ、スタッフの皆さんと共有することができたんじゃないかなと思っています。
あと、見どころとしてはやっぱり、なずながめちゃくちゃかわいいんですよ(笑)。他のキャラクターも素晴らしいですけど、なずなに対する新房監督の愛が深すぎて。とにかく僕は完全になずな推しなので(笑)、皆さんもぜひ、なずなに注目していただけたら。
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