【連載】愛さえあれば不安はかき消せるのか/三浦瑠麗氏連載「男と女のあいだ」#5 不安に悩む人へ

2024/09/25 18:00 配信

芸能一般 コラム 連載


何事にも愛を持ち出すのは、いささか牽強付会(けんきょうふかい)であると思う人もあるかもしれない。しかし、友情にせよ男女の愛にせよ、愛の素晴らしい所は、例え不完全であっても相手のことを思う点にある。全てのものにその都度意義と見返りを求めれば、その人に向けられる愛や友情を減らし、最終的に孤独な生にしてしまう。合理性を仮定するモデルは、戦いや資本主義には相応しいけれども、人間関係の構築には相応しくないのである。それに、失うものを持たない人の言うことに、誰が耳を傾けたいであろうか。必要なのは、自虐でも自己犠牲の精神でもなく、予め与えられた不完全な他者への赦しなのである。

友情はその点、分かりやすい。しかし、男女に関しては、その愛を欲望ゆえだと勘違いする人は少なくない。けれども、欲望が純粋に欲望だけで存在していることは稀で、多くの場合は欲望自体が不安に根差している。その不安からの逃れ方として、どのような愛を培えば救われるのかということを考えてみたい。



不安と一口に言っても、様々なものがあるだろう。死と孤独への不安、自分が世界において唯一無二の存在であるという感覚や自尊感情が傷つけられることへの不安。孤独への不安は、他方で自ら心身をコントロールする自律性を失ってしまうのではないか、という不安ともせめぎ合う。わたしたちはこうした不安から僅かな間であるとしても逃れることを望むので、安心した、と感じた状況を繰り返し再現しようとする。

性的な行為には距離感の消失が伴う。例えば、反発や魅力など何らかの反応を自分から引き出すような相手に対して、性的に親密な行為が起きると一挙に距離が無くなる。縮まるのではなく、ふっと消えて無くなるのである。しかし、相変わらず二人は別個の存在であり他人同士なので、離れれば「別人」に戻る。ただ、心の方はその感覚を覚えているとみえ、その人のことを親しみの感情を持って見るようになり、もう一度その時の感覚を取り戻したくて相手を求める。これを欲望とみるのか、不安とみるのかは視る深度の違いによる。逆に、相手との関係性が定まった不安の少ないカップルに、性的な結びつきが弱まっていくという話もしばしば見聞きする。そう考えてみれば、恋だとか性だとかといったものは、生殖という目的を別にすれば、人間が生きることに伴う不安から逃れるための一つの手段に過ぎなかったことが分かる。

恋愛の過程では、友情とは異なってひとりの人のみを愛するため、しばしば、却って不安が募ってしまったり、心の痛みをもたらしたりする。多くの場合、相手は「完璧」ではない。性格上の欠点というよりも、それは愛し方をよく知らないところからきている。

自主自律を重んじるあまり、他人に心情をほとんど明かさない人が人を好きにならないわけではないが、そういう人に限って不要な恐れに繋がるとして「余計な思考」を退け、その結果大した努力も払わずに相手からの好意を当然に得るものとばかり思いこみがちである。また、他人と深く関わることが出来ず、一夜だけの関係しか積み重ねられない人は、不安を浅いレベルで折々に解消しつつ生きているに過ぎない。人によっては、日々あまりにも強い不安に脅かされているため、不安が高まる状態に陥ることの予兆さえ恐れている人もいる。

例えば、芸能に生きる人の不倫スキャンダルなどが問題になるたび、表舞台での貌と裏での貌のギャップが問題視されるが、表において極度の緊張と演技を強いられる人間に強い不安がないとすれば、それこそ人間として異常なのだ。ただ、交際相手が、自分は不安解消の道具として利用されただけだったと感じたならば、それが自ら進んで入っていった不倫関係であったとしても、不満の表出は一気に「告発」の装いを帯びる。

自我を支えるために他者の感情や身体を利用しようとすることは、不安から根本的に逃れるのに役立つわけではなく、大きすぎる不安を両手で抱え込んだまま、それを手放したくなくて、転げるように坂を下っている自分の状態・姿勢を保持するためにやっているに等しい。だから、そういう人に想いを懸けても、いったん何かにぶつかって破綻するまでは救ってあげることができないし、無駄なのだ。差し出された愛情によって心臓の質量が減るわけではないのだから、与えた側はその分何かを失いはしないのだけれども。

しっかりと愛するやり方さえ学べば、友情ではなく男女の仲であったとしても、与えあう関係が育めるはずだ。わたしたちは、相手が未熟であり、自分自身も未熟であることを前提に、互いに幸せをもたらす功利的ではない人間関係を作っていくしかないのである。

秋の気配がするコモ湖の畔にたつホテルにて本人提供写真