映画を観終わって、一番に思ったことは、「すべての人にメダルは必要なんだな」ということだ。
こういう「スポーツもの」の映画に対して、努力をして、チームで団結して、それでも負ける、というようなところに感動するものだという先入観を私は持っていた。
まあ、この「おじさん」たちも、練習はしているし、みんなで仲良くはなっている。
だけど、なんていうかこう、「ものすごく頑張っているなあ」という感じの撮り方ではないのだ。努力はしているけれども、ちょっと笑っちゃうような努力というか……。自分を変えるような、ライバルを打ち負かすような努力ではなくて、自分がとりあえず満足するような努力を、仲間内で小競り合いしながら行っている。
体型も、結構リアルだ。お腹が出ていて、決して筋肉美はない。物語の進行に従って変わっていくのかと思いきや、そこはそんなに変わらないのだ。髪の毛もボサボサのままだ。
そうか、このままでいいんだ。このままでメダルをもらってこそ、意味がある。
ライバルを負かすような努力なんて人生にはいらない。かっこ悪いまま、年齢に逆らわずに、自分らしいちょっとした努力において、メダルをもらうのだ。
そう、ちょっと頑張っただけの人だってメダルをもらうべきだ。メダルは量産した方がいい。さまざまな分野にいろいろな面で頑張っている人がいるわけだから、みんながもらうのがいい。
そして、「オレにはメダルがあるんだよ」と、周囲の人に見せびらかさなくてはいけない。みんながそれをやるべきだ。
ベルトランは、妻の姉の夫が経営する家具店で職を得る。妻の姉のことも、その夫のこともいけすかないと思っているが、仕事欲しさに雇ってもらう。だが、やっぱりベルトランには不満が溜まり、最後にはケンカになる。
「君はロクデナシだ。妻を働かせてプールで踊ってる。軟弱踊りの世界選手権だと? 滑稽だよ」
妻の姉の夫が笑う。
「僕らは悪くない。自分で選んだ道じゃない。不幸な偶然だよ」
ベルトランが言う。
僕らは悪くない、とはどういう意味だろうか? 人生が上手くいっていないことに関してか? いや、そもそも、男に生まれることを選んでいないということか。
ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉は有名だ。昨今はフェミニズムブームで、多くの人が「女性らしさ」に疑問を持つようになった。
だが、男性に「男性らしさ」を強いることはまだ行われている。男性が女性的なことをしているのを見たときは笑っていい、ユーモアとして捉えていい、という空気はまだまだ残っている。
「おじさん」のかっこ悪さを、やっぱり、本当は笑ってはいけないのだと思う。
男性だから、という理由で責めたり、プレッシャーをかけたりしてはいけない。
もうすぐ、従来の「おじさん」のイメージがなくなる時代が来る。その過渡期にある映画だ。「おじさん」にもメダルを、そして、その他のみんなにもメダルをあげよう、そういう気持ちになる。
作家。1978年生まれ。『趣味で腹いっぱい』『リボンの男』、エッセイ『文豪お墓まいり記』『ブスの自信の持ち方』など。目標は「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。
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