「真田丸」武田信玄役は大河に人生を捧げた名殺陣師!

2016/01/23 07:00 配信

ドラマ インタビュー

武田信玄の亡霊を演じたのは“大河歴50年”の殺陣師・林邦史朗(C)NHK

堺雅人が真田信繁(通称・幸村)を演じ、話題を呼んでいる大河ドラマ「真田丸」(毎週日曜夜8:00-8:45NHK総合ほか)。武田家の滅亡が描かれた第2話(1月17日放送)では、信繁の父・昌幸(草刈正雄)の前に武田信玄の亡霊が姿を見せたが、そこで信玄を演じていた俳優をご存じだろうか。

実は、信玄役を務めたのは、50年以上大河ドラマの殺陣指導を担当した殺陣師・林邦史朗。昨年9月の撮影から約1カ月後の同10月29日に、すい臓がんで亡くなった。日本初のスタントマングループ「若駒冒険グループ」(現在の演劇・殺陣プロダクション「若駒」)の創設者として日本の殺陣を格段に進歩させ、殺陣をつけた多くの名優たちから慕われた彼の人物像を、弟子で「真田丸」の殺陣を担当する中川邦史朗が語ってくれた。

――まずは、中川さんが林さんに弟子入りしたいきさつを教えてください。

僕はもともと養成所の出身なんですが、そこのアクションの講師が林先生だったんです。出会いは20歳くらいの時ですね。

――当時、林さんの印象はいかがでしたか?

しばらくは先生がお忙しくてお会いしたのが2カ月後くらいでしたが「あ、この顔は時代劇をやっている人だ!」と思いました。怖いというか、見た目で圧倒される。“ただ者じゃない感”は半端じゃなかったですね。

――実際に話すようになって、印象は変わりましたか?

実際は口数の多い人でしたし、しゃべっていないときは鼻歌が出るようなタイプでした。どこに行っても常に自然体というか、自信の塊でいつも動じない人でした。

指導は当然、厳しい部分もありますが、僕の中では厳しいより、優しいとか楽しいという印象が強いですね。これが若駒の先輩方にとっては、厳しい印象の方が強いと思いますが(笑)。僕が入ったころには、もう丸くなっていたんです。

――林さんは、大河ドラマ「太閤記」(‘65年、NHK)で大河の殺陣師を最年少で務めて、それから50年にわたって殺陣を担当されていたということですが、当時のお話を聞くことはありましたか?

ええ。「太閤記」が始まる前の立ち回りは、歌舞伎などの演出をそのままテレビに持ってきていたので、舞に近かったそうです。でも、「太閤記」の監督はもともとドキュメンタリー番組を作っていた方だそうで、戦場にカメラが突っ込んでいくようなリアリティーのあるものを撮りたい、と。それで、若くて可能性のある人、ということで指名されたと聞いています。

それから、リアリティーある殺陣をやるために、馬から落ちたり…というスタントのようなことをする仲間を集めたそうです。今ならまさに今言ったように「スタント」とか「アクション俳優」と呼びますが、そういう言葉もない時代だったので、うちは「若駒“冒険グループ”」という形でスタートしたんです。

――殺陣について心構えなど、林さんの教えで印象に残っているものはありますか?

「本物を知って、うその表現を知る」ということですね。林流では、刀にしてもなぎなたにしても、本物で稽古をするんです。そうやって、その重さや、鋭さといったものを知らないと、本物の演技指導はできないからです。

――俳優の皆さんから大変に慕われていたと聞きましたが、どんなふうに関わっていらっしゃったんですか?

役者さんの芝居を大切にしていましたね。立ち回りが苦手だという方もいらっしゃるんですが、立ち回りもお芝居の一つなので、もちろん連動しています。なので、役者さんが役をどう演じるかも考えますし、演じる方の見た目も考慮しますし、その中でいかにリアリティーを出していくかということで、役者さんとよくコミュニケーションを取っていました。

林先生と呼ばれるのも嫌がりましたね。「真田丸」の出演者で言えば、(親交の深かった)内野聖陽さん、榎木孝明さん、藤岡弘、さんたちが、「邦さん、邦さん」って呼んでくださっていたんですが、それも本人が「先生」と言われるのが好きではなかったからです。

なぜかというと、「一つの作品を一緒に作っているんだから、そこに上下関係はないだろう」という考えなんですね。教える、教わるという立場ではなくて、殺陣師も照明やカメラ、音声といったスタッフと同じというスタンス。だから「どの呼び方でもいいよ。呼びにくかったら邦さんでいい」と言っていました。

――さて、林さんが信玄役を演じた第2回の演技についてもお伺いしますが、撮影中の様子はいかがでしたか?

お話が来たのが、まだ元気なうちだったのですが、本人もそれを支えに闘病していたんです。受けた以上(本人にとって)出ることは絶対だったので、体力が落ちてきてはいたのですが、気力を振り絞っていました。

撮影が始まると病院とは全然顔つきも違っていたし、しっかりと話していたし、そういう意味では受けた仕事はやり遂げるという責任感を感じました。もともとは出演する側だったそうなので、自分が出るという形で終われたのはある意味良かったと思います。

――最後まで大河に関わる姿をご覧になって、あらためて感じたことはありましたか?

そういうふうに言われると、いろんなものを背負ってしまうので、なるべく見ない、聞かないようにしています。それこそ名前を受け継いでいるんですが(笑)。

――そもそも名前を引き継いだのは、どんないきさつだったんですか?

どうして名字ではなく名前を引き継いだのか、とよく聞かれるんですよ。実は、先生がまだ元気なときに「大河の殺陣師として邦史朗という名前を残していきたい」という話をされました。「ただ、“林邦史朗”としてまだやりたいことがある。だから全部はやれない。下の名前にしよう、名字はなんでもいいよ、どうする?」と言われて。「え、じゃあ(本名の)中川でいいです」って(笑)。

林先生は、1年スケジュールが埋まる大河ドラマを引退して、これから映画や舞台などもやろうと思っていたんです。ただ、そんな矢先に亡くなってしまったので、それは残念でしたね。

――では、最後にあらためて、“邦史朗”という名前とどう向き合っていこうと考えていますか?

よく、「今後、日本の時代劇を背負う意気込みは?」といった質問を受けますが、僕だって邦史朗としてスタートしたばっかりですからね。プレッシャーで身動きが取れなくなってしまうので、今は何も考えず、この真田丸を1年務めるというつもりでいます。

1月23日(土)昼1時5分からは、NHK総合で、大河ドラマ「真田丸」第2回が再放送される。林邦史朗の最期の勇姿を、もう一度目に焼き付けてほしい。

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