沖縄に寄り添うジャーナリスト・森口豁沖縄再訪の旅を追った映画を上映<永田浩三監督インタビュー>

2020/10/30 16:27 配信

映画

首里城を訪れた森口豁

沖縄を見つめ、いのちの限り問いつづけるジャーナリスト・森口豁(かつ)。その沖縄関係者再訪の旅を追ったドキュメンタリー映画「命(ぬち)かじり~森口豁 沖縄と生きる~」が、10月31日(土)、開催中の「ねりま沖縄映画祭2020 わたしの沖縄 あなたの沖縄」で上映される。監督は、NHKで「クローズアップ現代」や「NHKスペシャル」を手掛けた永田浩三武蔵大学教授。

1956年、森口さんが高校生の時、後にウルトラマンシリーズを企画し、脚本を手掛けた金城哲夫(高校の1年後輩)が、「一緒に沖縄に行きませんか」と森口さんを誘った。これが沖縄との運命的な出会いだった。

大学を中退して琉球新報社に入った森口さんは、すぐに沖縄へ渡り、本土出身者として初めて琉球新報の記者となった。その後、日本テレビディレクターとして沖縄をテーマにした多くのドキュメンタリーを制作した。

この新作映画は、かつて森口さんがテーマとしてきた対象、関係者の記憶をあらためてたどる旅を追う。日の丸を引き下ろした男性、国会議事堂にバイクで激突した若者、本土復帰運動の若きリーダー、自らを「在日沖縄人」と称した彫刻家、辺野古新基地建設にあらがう闘士…。彼らの人生が森口さんのいのちと深く重なり合う。

「命(ぬち)かじり」とは、いのちの限りという意味。いのちの限り沖縄の人々の苦悩に寄り添いながら、虐げられた歴史を伝えてきたジャーナリスト・森口豁の「沖縄」への思いを収めた映像が同映画だ。作品を製作した永田浩三監督に話を聞いた。

永田浩三監督インタビュー

【写真を見る】「命(ぬち)かじり~森口豁 沖縄と生きる~」永田浩三監督(武蔵大学教授)

――「命(ぬち)かじり~森口豁 沖縄と生きる~」はどんな映画なのでしょうか。

映画は、昨年10月に燃えた首里城のことから始まります。首里城を訪れた森口さんが語り始めるんです。

森口さんは、首里城が燃えているのを明け方のニュースで見て、「これは、オスプレイが落ちたのか」と直感的に思ったと言うんですね。森口さんにとっての“直感”は「米軍の被害を受ける沖縄」という見方が非常に強いんだなと思いました。

私が首里城火災のことを知っても、米軍の被害を思い浮かべることなんてなかったですから。森口さんは本土出身ですけど、まずそれを思うのが大事なことなのでしょうね。

映画は、そんな森口さんが、ジャーナリストとして沖縄を伝えてきた映像の中に出てきた人たちを訪ねていく姿を追っています。

――森口さんが訪ねられた方々や場所について、お聞かせください。

内間安男さんは、コザ高校の高校生の頃から、本土復帰運動を中心になってやっていた方で、やがて演劇人になり、劇団「創造」で活躍なさった。差別の構図を描いた「人類館」というお芝居で知られる劇団ですね。

高校生の内間さんは、戦没者慰霊行進に参加し、復帰前の沖縄にやって来た衆議院議長に、祖国復帰を訴える手紙を差し出しました。後の取材で分かったことですが、森口さんは取材者でありつつ、アドバイスを送っていたようです。
(森口さんはドキュメンタリー「沖縄の十八歳」「一幕一場・沖縄人類館」などで内間さんを取材)

上原安隆(うえはら・やすたか)さんは、1973年、国会議事堂にバイクのナナハンで激突して亡くなった方。その方のお兄さんの上原安房(やすふさ)さんの恩納村のお宅に行くと、弟さんが激突した時のヘルメットがそのまま残っていました。国会議事堂の正門の鉄のフェンスの跡がついていました。
(ドキュメンタリー「激突死」で取材)

1987年国体のソフトボールの会場になった読谷村の競技場のセンターポールに掲げられた日の丸を引き下ろして焼いた知花昌一さん。森口さんは知花さんと読谷のチビチリガマに一緒に行かれています。

森口さんと沖縄との出会いを作ったのは金城哲夫さん。ウルトラマンの脚本を書いていた方。彼は森口さんの玉川学園の一年後輩です。金城さんの記念館が南風原町(はえばるちょう)にあって、そこで弟さんや妹さんから、哲夫さんの死のお話も聞きました。南城市の新原(みーばる)ビーチ、森口さんと哲夫さんとの思い出の場所にも足を運びました。

うるま市の宮森小学校からほど近い、近田洋一さんのお墓も訪れました。森口さんの琉球新報記者としてのスタートは、1959年、石川市(現うるま市)・宮森小学校の米軍機墜落事故です。その時に一緒に取材したのが近田さんで、宮森小学校の現場にいち早く駆けつけて、12人の子どもたちやご遺族のその後をずっと取材しつづけたんですね。

二人で約束をしたわけです、ピアニストを目指していたのにやけどで手が動かなくなった女の子の無念の気持ちをずっと世の中に伝えていこうと。

辺野古の新基地移設反対の山城博治(ひろじ)さんと昔の米軍基地闘争の話もされていました。武装米兵を恐れないで戦った話ですね。今ももちろん頑張って辺野古のゲートで座り込みを続けているわけですけれども、当時の反基地闘争は銃剣を突き付けられても負けなかったと語り合っていました。

森口さんの沖縄との関わりの、ある種、けじめの旅と言えるでしょうか。映像には今生のお別れの旅のような雰囲気が漂っていると思います。

森口豁

――森口さんと沖縄に行くことになったきっかけ、永田監督と森口さんとのご関係からお聞かせください。

5年くらい前でしょうか。最初は映画館のアップリンク渋谷で一観客としてごあいさつしたのが始まりです。

森口さんは、テレビドキュメンタリーの世界で沖縄をずっと描いてきた人で、沖縄のドキュメンタリーと言えば森口さん名前がまず挙がります。いろんな作品を見させてもらってこれはすごいぞと思っていたんですよ。仰ぎ見る先輩として作品を見ていました。

2017年の「ねりま沖縄映画祭」で森口さんの作品をまとめて上映することになり、森口さんをゲストに呼んで、私が聞き手を務めさせていただきました。こんな世の中で作品がちゃんと保存もされていて、見る機会があるっていうのはいいことですよね。

神田淡路町のPARC(パルク)自由学校でも森口さんの作品を見て、お話を聞く講座を3年続けて開講し、案内人を務めました。そうして森口さんの作品と時代背景を講座にしていく中で、森口さんの映像に登場してくる人に会いたくなりました。

森口さんの体調が思わしくない中で、「沖縄に旅をするんだけれども、一緒に行きませんか?」とお誘いいただいて、お世話になった関係者の人たちを訪ねるというその旅に同行しました。

――永田監督ご自身も昔から沖縄に興味がおありでしたか?

NHK時代に、尚家の紋章を取材したり、ビキニ環礁の水爆実験の「死の灰」を浴びた沖縄の船を調べたり、それから沖縄返還交渉、1995年の米兵による少女暴行事件、本土メディアと沖縄メディアではどういう風に伝え方が違ったのかを番組にしたりしましたね。

――このインタビュー取材の前日まで沖縄へ行かれていたそうですが。

教えている武蔵大学の学生たちと沖縄に合宿に行っていました。映画に登場する人たち、金城実さん、知花昌一さんに会っていただきました。

学生たちは春からずっと沖縄のことを勉強してきて、チビチリガマのことや、沖縄の人にとって日の丸がどういう意味を持っているのかをすごく詳しく知っています。琉球処分とか、大阪の人類館事件、方言札、コザ暴動はなぜ起きたかとか、いろんなことを一つ一つ学んできて、ドキュメンタリーや書物に収められたご本人に会うことが実現したわけですね。

学生たちは学んだことに基づき、朗読劇を制作します。来年2月に発表することがゴールです。

――映画をご覧になる人に伝えたいことをお願いします。

森口豁さんというすごい人がいたということを何より分かってほしいです。ウチナンチュの世界に飛び込んでいったヤマトンチュジャーナリストの物語です。

命(ぬち)かじり~森口豁 沖縄と生きる~」は、東京・練馬で開催中の「ねりま沖縄映画祭2020 わたしの沖縄 あなたの沖縄」のプログラムとして、10月31日(土)昼2:30より、武蔵大学江古田キャンパス1号館地下1002教室で上映される。トークイベントには森口さんと永田監督が出演する。永田監督によると、劇場での公開も近々決まりそうとのことだ。