1819年9月13日、ピアノ教師フリードリッヒ・ヴィークの次女としてクララは生まれた。クララは幼少のころより、ピアニストの才能を発揮し、天才少女としてその名は広まった。やがて、ヴィーク氏は1人の青年を弟子に取る。
青年の名前はロベルト・シューマン。大学で法律家を目指していたが、音楽の道を諦めきれずピアニストを目指すことに。しかし、指のケガが元で断念、作曲家を目指すようになった。やがて、クララとロベルトは互いに愛し合うが、これに気付いた気難しく厳格なヴィークは2人を遠ざける。
ヴィークの2人に対する誹謗中傷はさらにエスカレートし、ロベルトはヴィークを名誉棄損で訴える。そして、2人の結婚を許可する判決が下り、晴れて2人は結婚した。
2人が結婚して13年の歳月が経過。クララはピアニスト、ロベルトは作曲家として確固たる名声を手に入れていた。
2人は互いに支え合ってきたが、ロベルトは疲労から神経が衰弱していき、外部との接触を拒むように。病状はさらに悪化し、彼の名声は落ちる一方だった。
そんな中、知人の紹介で訪問してきた若きヨハネス・ブラームスが自作のソナタをピアノで弾き始めると、ロベルトの顔に喜びの光が射す。
ロベルトはヨハネスのため、「新しい道」と題した論評を発表。ロベルトの厚意に深く感謝したヨハネスは、彼の最も忠実な弟子となり、シューマン一家に明るい日差しを持ち込んだかのようだった。しかし、ロベルトの心の病は密かに肥大していた。
1854年2月、ロベルトはライン川に身を投げる。数年来、ロベルトを悩ませていた幻聴がいよいよ耐え難いものとなり、療養施設に収容されることに。
知らせを聞いたヨハネスは急いで駆け付け、身重だったクララとシューマン家を助けた。
こうした中でヨハネスとクララの距離は縮まり、2人の間には好意以上の感情が芽生えていた。入院の2年半の間、次第に自分を失い、時として獣のようにわめき散らす自分の姿を見せたくなかったのか、ロベルトはあれほど愛していたクララとの面会を頑なに拒んだ。
病院から危篤の知らせが届くと、クララは2年半ぶりに愛する夫の元に駆け付ける。そして、シューマンは不自由な体でクララを抱き締める。クララが到着した日から翌々日、ロベルトは永遠の眠りについた。
ヨハネスはその後、ヨーロッパを代表する大作曲家となった。
また、クララも演奏家としてその名声を不動のものとしていった。強い愛情で結ばれ、時には夫婦のように、家族のように、また同志として、ロベルトの死後40年にわたって絆を深めていった2人だったが、やがて別れの時が訪れる。
※記事内、朴ろ美の「ろ」、正しくは「王へんに路」
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