1998年長野オリンピック。日本スキージャンプチーム・通称“日の丸飛行隊”は、国民の期待を一身に背負ってラージヒル団体で日本初の金メダルを狙っていた。
そこに、エース・原田雅彦(濱津隆之)のジャンプを特別の思いで見守る男がいた。元日本代表・西方仁也(田中圭)だ。前回大会・リレハンメルオリンピックで西方は原田と共に代表選手として出場。
西方は日本代表最高飛距離135mを飛び、金メダル目前だったが、原田がジャンプを失敗。銀メダルに甘んじた。
西方は4年後の長野オリンピックでの雪辱を誓い練習に打ち込み、代表候補として有力視されていたが、まさかの落選。悔しさに打ちひしがれる中、テストジャンパーとして長野オリンピックに参加してほしいと依頼される。
テストジャンパーとは、競技前にジャンプ台に危険がないかを確かめ、競技中に雪が降った際には何度も飛んでジャンプ台の雪を踏み固めるジャンパーのこと。
西方は裏方に甘んじる屈辱を感じながらも、さまざまな思いを抱えて集まっていたテストジャンパーたちと準備に取り掛かる。そして本番当日、団体戦の1本目のジャンプで、またしても原田が失敗。日本は4位に後退してしまう。
しかも、猛吹雪により競技が中断。このまま競技が終れば、1本目のジャンプの結果のみで順位が決定してしまう。
そんな中、審判員たちの判断は「テストジャンパー25人が全員無事に飛べたら競技再開する」というものに。くしくも、日本の金メダルへの道は、西方率いる25人のテストジャンパーたちへ託された。
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