チャップリンや榎本健一など喜劇映画の俳優に憧れ、コメディアンを目指した萩本欽一。1966年に坂上二郎と結成したコント55号では、舞台を駆け回る激しい笑いで国民的スターに。「コント55号の世界は笑う」('68 ~'70年フジ系)、「ぴったしカンカン」(’75 ~’84年TBS系)など、多くのレギュラー番組に出演する一方、1971年ごろからはソロ活動も増やす。司会のみならず、自ら企画・構成・演出にも携わり、レギュラー番組は軒並み高視聴率を獲得。その合計が100%を超えたことから“視聴率100%男”と呼ばれた。テレビが各家庭に普及し始めた1960年代から半世紀にわたり、時代ごとにバラエティー番組の在り方を模索し続けてきた“欽ちゃん”こと萩本欽一は、テレビが置かれる現在をどう見ているのだろうか。
――コント55号は浅草の演芸場から評判が広まって、テレビ局から出演のオファーがあったそうですが、当時のバラエティー番組に出演されてみて、どのように感じましたか?
「まず驚いたのは、何度も練習するテレビ界のルールだね。リハーサルから始まって、ランスルー、通し稽古、本番って合計4回も。それがずっと窮屈でさ。当時は、舞台の様子をそのまま中継するのがバラエティー番組だったの。僕がコント55号でテレビに呼ばれ始めた1960年代の終わりごろの話だよ」
――舞台の中継ということは、むしろドラマの要素が強かったんでしょうか。
「そう! しっかり作られた台本の通りにやるお芝居だったの。ところがね、あるときの生放送中にステージの幕のスイッチが故障して、二郎さんが登場したらすぐに幕が下りちゃった。そしたら二郎さん、『今日はもうおしまいのようですね。では、ごきげんよう』ってお別れのあいさつをして、衣装まで脱いで帰り支度を始めちゃったの。そしたら今度は逆に幕が上がって、二郎さんが急いで舞台に戻ってきてさ。せりふをちょっと言うたびに、幕が上がったり下がったりして、もうコントどころじゃないんだよ(笑)。でも、それを見てるお客さんはバカウケ! 今起きている状況をそのまんま見せるのがテレビの面白さなんだって、そのとき気付いたね。予想外のトラブルやハプニングを『いいことが起きた! やったぞ!!』って、利用して遊んじゃう、という」
――そのあたりは二郎さんの名人芸ですよね(笑)。
「うん、二郎さんは慌ててはいるんだけど、喜んじゃってるのが僕には分かるから(笑)。だけど、そのあとすぐ幕が直っちゃってさ。残念だったね。ウケがずっと続いてたから、あと15分くらいは面白くできると思ったんだけどね。でもそのときにね、舞台の袖にいるスタッフは『大変だー! これは問題になる!』とか言って、放送を中止しようとしたの。稽古で積み重ねたものなんて“過去”でしかないのにね。…とまぁ、こんな理由があって、コント55号のスタイルができあがったわけ。どうなるか分からないアドリブ主体のコント、スリル満載のコントがね」
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