進行を務める林田アナにも触れておきたい。こういった教養番組は、女性アナウンサーが「教わる側の視聴者」を代弁する役割を担うことが多い。林田アナも「ブラタモリ」や「植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之」などで、そうした役割を務めてきた。
だが「おんがくこうろん」は、進行役も輪の中に入り、一緒に音楽を語らう。林田アナは大学院で音楽史を学んでおり、専門はショパン研究。第3夜では、楽器が弾けない作曲家であるアリー・ウィリスに、チェロが弾けなくてもチェロとピアノの楽曲を残したショパンを重ね合わせ、「弾けないからこそ書ける曲もある」と話す場面もあった。
人間とパペットが共存するのも、進行役が輪の中に入るのも、冒頭のナレーションにもあった「みんなで楽しく語り合う」を形にしたものだと感じる。「音楽を学ぶ」となると、どうしても上から下へのベクトルを感じてしまうが、「おんがくこうろん」は「公論=かたよらない議論」であり、語らう場が開かれている。
番組を見ていてとても心地良く感じるのも、そうした「開かれた」印象があるからだろう。音楽は誰にとっても平等に鳴り響き、それぞれ感じることは自由なのだ。
番組開始に寄せたコメントで、星野源は「意味がわからなくても、『なんとなく』の興味の入り口に立てるような番組になれば」と語っている。たまたま番組を見た小さな子どもが、音楽家たちの名前やサウンドに触れ、頭の片隅に残ったまま成長したら、受容できる音楽の幅が広がるかもしれない、と。
音楽について開かれた語りをする場所に、星野源がEテレという場を選んだのも、こうした思いと無関係ではないだろう。「おんがくこうろん」に「田起こし」された感受性から、いつか新種の稲穂が実るかもしれない。未来が今から楽しみになる。
文=井上マサキ