美大在学中から音楽活動をスタートしたシンガーソングライター・小林私が、彼自身の日常やアート・本のことから短編小説など、さまざまな「私事」をつづります。今回は、「ある配達員」の経験を綴ったショートストーリーをお届けします。
昨日は、泥のように眠っていた。まぶたを焼く日差しで蒸した部屋の温度は、汗がべっとりと染み込んだスウェットが張り付いた背中で測れそうだ。
二日前だかに収穫した豆苗は今にも天井を突き破りそうなほどで、命の一端を刈り取られたことなど忘れ、窓辺から外を眺めていた。
上体を起こすと、蒸し暑さの次に喉の渇きに気付いて、ペットボトルに飲み残した水を気にせずに飲み込む。からからに乾いた身体に温くなった水が流れ込み、それでも食道や胃の形が分かるほどだった。たまの休みを一日睡眠に費やしてしまったことを悔いていると、携帯電話がピロンと通知音を鳴らす。それとともに時間も表示される。
7:58。
今朝は起きられて良かったと思いながら、通知はきっと仕事の依頼だろう。分かっている。こんな日ばかりは休みたいと強く思う朝ほど忙しくなるものだ。
アプリを通して客が注文をし、またアプリを通して依頼となって配達員に通知される。客の代わりに自転車やスクーターで店に出向いて商品を受け取る。それを無事に依頼主まで運ぶ。運べた数で給与が決まる。
稼ぐ為に始めた最初こそアプリの通知音は福音のように聞こえたが、今では憂鬱に他ならない。依頼主からすれば商品が届きさえすればそれでいい。
この街には当然自分以外にも配達員は無数にいて、誰が誰に、何を届けようと、どうだっていいことだ。それでも食い扶持を稼ぐ為に、依頼を受理する。
基本的に商品は食べ物であることがほとんどだ。誰かのランチの為に弁当屋へ行ったり、誰かのディナーの為にファミリーレストランへ行ったり、誰かのデザートの為にカフェへ行く。
配達員に用意された番号を持って温かい内に、あるいは溶けてしまう前に運ぶ。概ねそれを繰り返す。
もちろんそうでないこともある。洗剤やトイレットペーパー、ペット用品といった日用品など、加盟店にある以上は時々注文される。珍しいとは思いつつも、想定の範囲を超えない。
今朝の注文は一風変わっていた。
通知に届いていた注文は、一冊の本である。
こんな注文も出来たのか。今まで気にも留めていなかったが、確かに加盟店のリストに「蛍雪堂」という本屋を見つけた。
家からはスクーターで15分、届け先は、蛍雪堂からまた15分くらいだった。少し遠い。日によっては見逃してしまう依頼だが、朝一番ということもあって注文を受理し、スクーターに跨る。何より、いつもとは違う依頼に多少なりとも心躍ったのだ。
8:28。
店に着き、店の脇にスクーターを停める。年季の入った瓦の屋根で蓋された平屋は民家のようにも見える。普段赴くようなチェーン店とのずいぶんとした違いに、一瞬何か間違えたような気がしたが、煤けたガラス戸には掠れた文字で「蛍雪堂」と書かれている。
いつものように番号を確認。MO334782。番号は取り違えを防ぐ為のものだが、今日ばかりは誰の何と取り違えるんだろうと思った。
画面から顔を上げるのと同時に、ガラス戸が軋みながら開かれた。
「あんた、配達の人だね。持っていきんさい」
そう言うやいなや皺だらけの手で一冊の本を手渡してきた。どうやら店主らしき老人で、小柄ながら目つきだけがやけに鋭かった。唐突だったことと、その目つきに圧されて番号の確認も出来ずに受け取ってしまった。俺が呆然としているのも束の間、老人はそれきり何も言うことなくガラス戸をピシャリと閉めた。
老人もこちらが配達員だと決めつけていた訳だし、取り違えているということはあるまい。本を専用のバッグにしまい、スクーターのエンジンをかけて受取先に向かった。
8:56
俺は少し焦っていた。
目的地には20分程度で到着する予定で、道もそう混んでおらず、寧ろ早めに到着出来るつもりだったのだが、肝心の目的地が見つからない。奇妙な本屋を出発してからもう30分近く迷っている。
普段なら地図アプリに住所を打ち込み、それに従っていれば辿り着くのだが、それらしき家が見当たらない。配達が遅れる旨のメッセージは送ってあるのだが、どうにも目途が立たない。
会話を最低限に宅配出来るという謳い文句もあり、暗黙に避けられていることなのだが、仕方なく電話機能を使うことに決めた。勿論アプリを介してであり、配達員も依頼主も互いの電話番号を知ることなく通話が出来る。
1コール、2コール、
「この電話番号は現在使われていないか、電波の届かない...」
切って、念のためもう一度かけ直す。
1コール、2コール、
「この電話番号は現在...」
今一度アプリの画面を確認すると、配達はキャンセルされていた。
ハッキリと分かった。悪戯だったのだ。
薄々勘付いてはいたが、明確に悪戯と分かると思いのほかガックリ来た。それは朝から無駄な時間を費やしたからではなく、一冊の本を注文した珍しい客にワクワクしていたからだ。
スクーターに乗り直し、家路に向かう。
こういうことは時折起こる。人のいない住所に注文されて、詐欺まがいのことに使われているケースもあったらしい。
何か不備のあった注文や、店から受け取った後に配達がキャンセルされた場合の荷物は、配達員が各々で処分する規約になっている。
大抵は食べ物だから給料も入って一食分タダになるのだから喜んで食べているが、本は初めてだ。
9:42。
どっと疲れて、アプリの通知機能をオフにした。しばらくぼんやりと天井を見つめてから、バッグから配達されなかった本を取り出した。
受け取った時はよく見ていなかったが、なにか薄い紙で包まれている。確かパラフィン紙と呼ぶのだっけ。薄紙の向こうにタイトルがうっすらと見える。詩集か何かのようだ。
戯れにパラパラと開くと、一枚の紙が落ちてきた。
これが何かのメモや暗号なら面白いなと思いながら確認すると、出版社があらかじめ挟んでいる栞だった。
その本は、読む気にも捨てる気にもならなかった。
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