生きてること忘れる/連載:小林私「私事ですが、」

2023/06/24 20:00 配信

音楽 コラム 連載

「 生きてること忘れる」 幼少期の記憶がない、という理由について考える※本人提供写真

美大在学中から音楽活動をスタートしたシンガーソングライター・小林私が、彼自身の日常やアート・本のことから短編小説など、さまざまな「私事」をつづります。今回は、生きてきたこれまでの「記憶」「思い出」について考えたことをお届け。

自分はエピソードトークが苦手な人間だと最近になって気付いた。
何故かと考えてみると、人生を振り返ってこれといって面白いことが起きていないということもあるが何より、思い出という思い出を片っ端から忘れているからだった。

まず、幼少期の記憶がほぼない。事あるごとに泣いていたことと、事あるごとに吐いて学校を早退していたこと、保健室の天井、図書室のマットが敷いてあって寝転んで本を読める場所、何も覚えていないわけじゃないが記憶の中にある風景は空から見下ろしたようなイメージばかりで、そこには誰も、自分もいない。
その原因は幾つかハッキリしている。ずっと、今も、物語の空想をしているから、現実を生きていないからだ。

幼い頃は音楽も絵も趣味じゃなかった。目が覚めているうちはずっと本を読んでいた。ありとあらゆる世界の自分ではないキャラクターの人生を生き、時にはその世界の空気となって彼らを見ていた。
当時の趣味を語る場では毎度「読書」と答えているが、これは嘘ではない。ただ、実のところの一番趣味でないのも事実だ。
一日を終えて布団に潜り込んでから意識を失うまでの間にする空想、これを楽しみに生きていた。別に現実が嫌だったわけでも絶望していたわけでもないが、その時間が本当に楽しみで、俺はその世界のことを考える間だけ生きている実感があった。

まぶたの奥の眼球がぽっこりと外れて空中を彷徨う。次第に街を鳥瞰するようなイメージになって、身体の動きが脳内の視覚と連動する。脳みそで体を動かしているラジコン本体が布団にくるまっている。次第に現実の自分こそが嘘みたいな気さえしてくる。
現実逃避というよりも空想帰還というべきか。
だから当時の空想は明瞭に思い出せるし、頭の中の世界もくっきりと色褪せていないまま、逆に現実であったことを思い出すとその景色たちは蜃気楼のようにぼやけている。

もう一つ原因を挙げると、実際にはこれが一番の問題点なのだが、自己暗示能力の高さである。思い込みが激しいと言ってもいい。

小さい頃から何にもしてないのに「俺はきっと凄い人間になるだろうな」と信じて疑わなかった。今でこそ音楽が仕事になったり美大で絵を描いたりもしていたが、当時は何にもしていない。どう凄くなるとか具体的なことはまるで浮かんでおらず、ただ「なんか凄くなる」と思っていた。それは自信があるとか前向きだとかいうことでもない。
「人生って何にも上手くいかないけど凄くはなるだろう」という訳の分からない思考だった。だった、というのも語弊があり、今でもそう思っている。

頑張る気も向上心も何かを出来る様になりたい欲も無く、人生プランも決めていなければ夢も目標も無く税金を勘で払っている。
ただ漫然と生きているだけで全てが好転していくと確信している。

”素晴らしい人生”のイデアがあるとして、適当に歩いていれば洞窟を抜け出せる。なんなら向こうからやってきてほしい。自分と世界のどちらかが変わらなければならないとしたら、絶対に世界が変わってほしい。

将来への不安も全然無い。今生きてるって実感が薄いからだ。
こんなことがあったような...が時間をかけて脳内で強固な事実のような気がしてくる。いつも誰かの目を借りて生きている気がしてくる。記憶も曖昧だからずっと同じ場面を繰り返している気がしてくる。

記憶や思い出や知識や経験をクラウドに保存しておきたいと最近強く思う。
俺だけが持つ眼差しの全ては俺が忘れてしまえば無かったことと同じような気がして恐ろしいからだ。
しかし本当は、そもそも自分を語る場なんて持たなければいいのではとも思う。
意識を置き去りにして、生きてること忘れて、時々呼吸のことなんかを考える。それは美しいと思える。
そう思い込むことも出来る。

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