円盤/連載:小林私「私事ですが、」

2023/07/08 20:00 配信

音楽 コラム 連載

円盤/連載:小林私「私事ですが、」※本人提供画像

美大在学中から音楽活動をスタートしたシンガーソングライター・小林私が、彼自身の日常やアート・本のことから短編小説など、さまざまな「私事」をつづります。今回はSFショートストーリーです。
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異変に気付いたのは早朝だった。毎日水を替えてやっている薔薇を瓶から一度出そうとしたとき、花弁が一斉にぽろぽろと落ちてしまった。まだ元気なはずだったのに、私は彼の身に何かがあったと確信した。

出来る限り急いで支度をした。ケトルの半分くらいまで水道水を入れて湯沸かしボタンを押す。トースターに食パンを放り込んでから卵を一つ、フライパンに割り入れる。いち早く鳴った音はお湯が沸いたことを知らせる音、それからトースターがチンと鳴って、フライパンの蓋を外すと目玉焼きがこちらを見ていた。

お湯に溶かしたインスタントコーヒーを冷ましながら、きつね色に焼けた食パンにバターを薄く塗ってかじる。塩を振った目玉焼きをフォークで切り取って咀嚼する。時折コーヒーを啜る。
トーストの最後のひとかけを口に放り込んでコーヒーで流し込んだ。空のシンクに汚れた食器を入れて水を張っておく。いつもならもう洗ってしまうのだが、今日は急いでいる。
どんなに急いでいる日にもまともな朝食を食べるように、これは彼と交わした唯一の約束だった。

身支度を整えて玄関を開けても、世界はまだそのままだった。

立ち並ぶ高層ビルは朝だというのに陰って黒かった。銀色の扁平な円盤が空を覆っているからだ。東京をまるっと日影が包み込むくらい大きな円盤はまだそこにいた。

とにかく、彼のもとへ向かわなければ。

もう二年は経ったろうか、政府は沈黙を続ける円盤との交信を半ば諦めている。駅の駐輪場にはいつも新聞や雑誌が散乱していて「東京に夜明けは来るのか」なんて見出しが目についた。
公共交通機関は、はじめこそ円盤由来の災害に備えて停止していたが今はもう開き直って営業を続けている。地下鉄ならどうせ景色は変わらないし。
電車内を埋め尽くすサラリーマン達も、以前とちっとも変わらない憂鬱な顔で吊り革を掴んでいる。張り巡らされた広告から「脱毛のすすめ」「誰でも合格する勉強法」「大人の教養」みたいな文言は消え去って「円盤の秘密」「政府による陰謀」「宇宙からのメッセージ」と言った煽り文句に切り替わっている。これは、前ほど悪くはない気もする。

彼の自宅は東京駅近くにあるマンションの一室。連絡を忘れていたが、朝からやけに胸騒ぎがしたのだ。チャイムを鳴らす。応答がない。聞き逃したかもしれない、もう一度。...応答しない。
連絡もろくにせずに不躾かもしれないが、渡し合っている合鍵で玄関を開けた。

「やあ、突然どうしたの」

ヘッドフォンを着けた普段と変わらない、少し困った様子の彼がいた。
私は安心してへたへたと座り込んでしまった。

ソファに座って彼が淹れたコーヒーを飲むとずいぶん落ち着いて、それから今朝あったことを話した。

「なんだい、そんなことか」
「そんなことって」
「いいかい、僕達の計画は完璧なんだ。何も案ずることはないよ」

笑って彼はそう言った。

「でも、花は水をやれば元気に育つと聞いたわよ、おかしいじゃない、突然」
「ガイダンスをよく聞いてなかったのかい?植物の成長には水と栄養、あとは太陽光が必要なんだ。太陽光は僕らの船が覆って差し込むはずないじゃないか。それに君が育てていたのは切り取ってあるやつだろう?もともと、そう長生きするもんじゃないさ」
「そう...なのかしら......」

「そういえば、朝食はきちんと食べてるだろうね」
「ええ、もちろん。トーストに目玉焼きも食べたわ」
「コーヒーは飲んだろうね?」
「もちろん、今も飲んでるでしょ?」

なら良いんだ、と彼は立ち上がった。

「仕事の続きをするよ。君はしばらく休むといい」

そう言っていつものように自室へこもってしまった。

窓からは円盤がよく見える。円盤...船か。私達はあれに乗ってこの星にやってきたのだわ。私達が来てからこの土地はずいぶん変わったように見える。それにしてもこの星の住人の適応力は異常だ。電車でも、何事も無いように過ごしている人がほとんどだ。

二足歩行生物としては同じでも私達と彼らはずいぶん違う。目と耳が二つしかないし、口はやたら大きいし、指は五本も生えてる。こういうこと、言っちゃいけないとは言われてるけど、正直気味が悪い。
私達の星はこんな星をもらってどうするんだろう。
ふとマグに注がれた残りのコーヒーを見る。ゆらぐ水面に一瞬気味の悪い生物が映った気がした。

「ひっ......」

......疲れてるんだわ。彼が言うように休んだ方がいい。ソファにもたれると次第に眠くなり、目がかすんできた。視界の端に写る自分の手には、指が五本生えているように見える。

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