美大在学中から音楽活動をスタートしたシンガーソングライター・小林私が、彼自身の日常やアート・本のことから短編小説など、さまざまな「私事」をつづります。今回はデジャブ(既視感)にまつわるエッセイです。
目を覚ますたびに同じ夢を見ていた気がする。
昨晩の夢は、裏口(バックドア)という能力を持っていて、一度触れた室内の複製を別の扉と接続出来るというもので、まるで見覚えのない職員室を再現し、明日のテストの答案があって喜ぶ。そういうちゃちなオチのついた夢だった。
初めて見る夢は安心する。時間が経過していることが分かるからだ。
一個の街に相当する超巨大なスーパー銭湯の夢を三度見たことがある。一度目は客として、湯煙立つロビーを歩いていた。二度目はスタッフだった。なにかことをやらかして空に逃げると網がかかっていて、そこで目を覚ました。「天網恢恢疎にして漏らさず」とはその後に知った言葉だった。
三度目は二度目の続きだった。空にかかる網をよく見るとファスナーが付いていて、それを開いて更に逃げると超巨大な人が私を捕えようとこちらを見ていた。これは恐らく西遊記に出てくる釈迦如来のイメージだろう。四度目はまだないが、見たときはきっと夢の中で死ぬだろうと思っている。
数年前に大阪遠征にて宿泊したアパホテルは初めて訪れた場所だったはずなのに、それよりもさらに前にそのホテルの内側を軽々と伝って空に躍り出る夢を見ていた。明確に同じ場所だと思った。幼少期に行ったスキー場も、その前に夢で見ていた。ゲレンデの中腹に立つ休憩所だった。
オカルトの類を信じているわけではないし、ただの認知バイアスと思う。いわゆる予知夢というものでもない気がする。裏口(バックドア)が正夢なら嬉しいが、まあ厳しいだろう。
とはいえ現実にデジャブが起こると、脳の錯覚とはいえ、むしろ錯覚だからこそ混乱する。今、俺は、錯覚している!という事実を認識した途端に意識が鳥瞰する。FPS視点(一人称視点)からTPS視点(3人称視点)になるように。反比例して視界は狭まる。何も見えなくなる。
比較的、毎日違うことと相対する暮らしのなかで、むしろ大抵の刺激というものに慣れてしまった。毎日が同じことの繰り返しならば、たまの休日に色がつく。移動そのものに飽きたし、新しい出会いも射幸心を煽らない、短期的に勝敗が決まって程よく焦らせるテトリスばかりやってしまうし、新しいものを摂取しようという動きそのものが刺激不足なだけという気がしてくる。
そしてまた同じような文章を書いている気がするのだ。
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