美大在学中から音楽活動をスタートしたシンガーソングライター・小林私が、彼自身の日常やアート・本のことから短編小説など、さまざまな「私事」をつづります。今回は別世界のガソリンスタンドや道路・空について綴ったショートストーリーです。
ガソリンスタンドのINという文字が目に入ってから既にガソリンの匂いがする気がしてくる。エンジンを停めてキーを抜き、財布を持ってタッチパネルの前に立つ。未だにハイオクがなんなのかよく分かっていない。幼少期から何度も目に耳にした「レギュラー 満タンで」という習わしに従ってパネルを選んでいく。
レギュラー 満タンで:何も考えずに目的のみを達成するさま、いずれそんなことわざが出てくるだろう。どうでもいいことを考えながらクレジットカードを読み取り口に差し込む。読み込みに少し時間がかかるので、この間に給油口を開ける。
赤いノズルを給油口に差し込んでレバーを引く。反応しない。もう一度引くと今度はちゃんと注がれていく。給油ノズルはよく出来たものらしく、ガソリンそのものの制御こそ店員が行うらしいが、満タンになって止まるのは完全なアナログ仕様だそうだ。解説している動画を見たが構造は忘れた。日々はそんなことばかりだ。
ゴウゴウと車がガソリンを飲んでいく。量と共に値段が表示されているタイプのものがなんとなく好きだ。ずっと眺めてしまう。近所のガソリンスタンドは量しか表示されないので面白くない。仕方なしに上を見る。これも好きだ。キャノピーから覗く青空が最も美しいと思う。なんというか、スカッと抜ける感じがする。
アナログなのは給油ノズルだけでなく、そもそも給油口を開けるのも人力だ。いずれは全てオートになって乗り入れた瞬間に全てが完了するのだろうか。
人類が空をものにしてはや十年。かつて二車線だった道路、地面に接する部分をX道路と呼ぶことになった。そこから制空車の走行する宙の部分をY1道路と呼んでいる。その上にY2、Y3とあるがここは有料で、Y3は主に緊急車両が走行している。我々一般人は主にXとY1の四車線を走行する。
X道路はY道路の出現からあまり整備されなくなり、酔狂なロマン派が大きなタイヤを使うために走っている状態だ。渋滞が大きく緩和されると思いきや、結局、交通状況はあまり変わらなかった。
かくいう私も三年前についに制空車に乗り換えた。当時レトロブームによってロマン派からの買い付けが流行り、元々乗っていたオフロード車にそこそこいい値がついたからだ。乗り物へのこだわりは年々無くなっていたので良い機会だった。
カコン、と指先の力が抜けて、ノズルが自動で止まる。給油口を閉じてからまたキャノピーから覗く空を見た。Y2信号が青に変わり、制空車が音を立てて空を駆けていく。足元を見下ろすと透明な床に隔たれられた灰色の排気ガスが天井に触れては拡散していっている。森を崩すように、月に旗を立てるように、やがてはどこにでも人の影が写るのだろう。
給油を終えてY1に合流する。信号は赤いまま、アクセルを思い切り踏んでみる。制空車のアクセルやブレーキはほとんどお飾りで、自動制御のストップがかかる。そして異常行動として検出され、ただちに管制塔に記録がつけられる。
それだけだ。
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