現代において、宮本武蔵以上に「二刀流」の代名詞となりつつあるメジャーリーガー・大谷翔平。メジャー史上初の“10-40-20”(10勝40本塁打20盗塁)の達成など、野球の本場・メジャーでも新記録を樹立し続けている。ワールドシリーズ後に控えるFA争奪戦のゆくえも話題となっているいま、日本人が誇る野球選手となった大谷が現在に至るまでの軌跡を辿り、人間像について深掘りしていく。
岩手県出身の大谷翔平は、1994年に元社会人野球選手の父とバドミントン選手の母の間に生まれた。いわばアスリート一家に生まれたサラブレッドともいえる。ちなみに兄の大谷龍太もトヨタ自動車東日本硬式野球部に所属しているという、筋金入りのスポーツ一家だ。
そんな大谷は早くから頭角を表し、リトルリーグ時代には全国大会へ出場。小学校5年生で球速110キロメートルの球を投げ、1試合6回17奪三振という記録を打ち立てている。リトルシニア時代に全国大会への出場を果たした。
大谷の名を全国に轟かせたのは、なんといっても花巻東高等学校の在籍時代。2年生のときには球速151キロを記録して“みちのくのダルビッシュ”と称されるようになり、3年生の夏にはアマチュア野球史上初となる160キロという豪速球を投げた。そして9月には「第25回AAA世界野球選手権大会」の日本代表選手として選出され、4番・指名打者として起用される。
ストイックな性格で知られる大谷だが、彼が「自身が大きく変わるきっかけになった」と語るのは同高校の寮生活だ。「生活や娯楽に制限を受けたことで、何が正しいのかを考えて行動することの重要性を学んだ」という言葉を残している。歴代チームメイトたちがこぞって褒める勤勉に練習へ取り組む姿勢は、寮生活のなかで得たものだったようだ。
当初はMLBへの挑戦を表明していた大谷だが、高校卒業後はドラフト1位で指名された北海道日本ハムファイターズに所属。自身の憧れであるダルビッシュ有の背番号「11」を引き継ぐことになった。
2013年には投手として登板した後に打席に立ち、右翼手の守備を務めるなど、早くも二刀流の選手として起用される。さらに同年のオールスターゲームには外野手として選抜され、高卒の新人としては1986年の清原和博依頼となるオールスターゲームでの打点を記録する。
続く2014年には日本人最速タイ記録の球速161キロに加えて、NPB最年少記録となる16奪三振、NPB史上初となる「同一シーズンで2桁勝利と2桁本塁打」という大記録を樹立。2017年には史上4人目となる通算40勝、40本塁打を達成した。
日ハムへ所属していた当時、史上まれに見る投打「二刀流」に挑戦する大谷に否定的な意見が多かったのは、多くの人が記憶していることだろう。だが当時の監督である栗山英樹は大谷の可能性を信じて決断。結果として数々の大活躍を見せつけ、押しも押されもせぬ「二刀流」の偉大な選手が誕生したのだ。冷たかった世間や業界人の目と評判が1試合ごとにひっくり返っていくさまは、まさにどんな脚本も及ばないドラマだった。
そして日本でのプロ経歴5年目となる2017年のオフシーズン。23歳の若さで大谷はメジャーリーグへ挑む。
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