それ以降の活躍は誰もが知る通りだ。シングル曲出荷枚数別でみると、1989年1月にシングルとして発売され最大のヒット曲となった「川の流れのように」(205万枚)をはじめ、東京オリンピックの年に発売され大旋風を巻き起こした「柔」(195万枚)、ひばりさんが涙を流しながら歌唱した曲として知られる「悲しい酒」(155万枚)…と、トップ10はすべてミリオンセラー(出荷数は2019年当時、日本コロムビア発表)。
数々の記憶に残るステージも遺した。1988年の東京ドームこけら落とし公演、ワンステージで50曲歌唱した武道館でのデビュー35周年記念リサイタルなど、“伝説”と称されるコンサートも数多い。1965年には新宿コマ劇場『お島千太郎』『65ひばりのすべて』公演で55日間100回ステージ30万人動員という、当時としては前人未到の記録を打ち立ててもいる。
さらに映画スターとしてもひときわ輝く存在だった。1949年『のど自慢狂時代』でのデビューから最後の映画出演となった1971年の『女の花道』『ひばりのすべて』までわずか20数年の間に160本以上の映画に出演。
流行の歌謡曲をモチーフにした歌謡映画や歌謡ロードムービーのほか、娯楽時代劇や冒険活劇…とジャンルも多岐にわたり、中には『たけくらべ』(1955年)など歌唱シーンのない作品も。当時は歌謡映画を中心に歌手が映画に主演するケースも多かったが、“歌手の映画出演”に限って言えば、ひばりさんの出演本数はけた違い。まぎれもない映画スターの一人として当時の映画業界を支えた。
歌手として、俳優としても大きな存在であり続けたひばりさんだが、家族思いの人柄でも知られた。ひばりさんの最大の理解者で、二人三脚でスター街道を走り続けた母・喜美枝さんとは“一卵性母娘(親子)”と呼ばれたほど。
息子・和也氏の小学校卒業の際には、多忙な中で卒業式に出席後、祝賀会で「芸道一代」を熱唱。「おかあさんありがとう」を歌唱指導もしたという。そんなあたたかい家庭人としての一面が“昭和歌謡界の女王”の輝かしい称号と矛盾なく両立していることこそが、ひばりさんが30年の時を超えても愛され続ける理由ではないだろうか。
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