コミックの映像化や、ドラマのコミカライズなどが多い今、エンタメ好きとしてチェックしておきたいホットなマンガ情報をお届けする「ザテレビジョン マンガ部」。今回は、プランタン出版より発売中の書籍「紙の舟で眠る」をピックアップ。
作者の八田てきさんが12月25日にX(旧Twitter)で同作の第1話を投稿。そのツイートには合わせて5000以上のいいねと共に、多くの反響コメントが寄せられた。この記事では八田てきさんにインタビューを行い、創作のきっかけやこだわりについてを語ってもらった。
天才脚本家の北原憬は、“死神”に取り憑かれている。彼が手掛けた主人公のモデルたちは次々と亡くなってしまうのだ…。
度重なる不幸によって、憬は闇酒場で飲んだくれる日々を送っていた。そんなある日、憬が酔って路上に倒れていると、あるアマチュアカメラマンが介抱してくれた。
その後、憬は彼の家に泊まらせてもらうことに。彼の部屋には、彼の撮った写真がそこら中に飾られていた。彼の写真を見た憬は、涙が止まらなくなる。
憬が名前を尋ねると、彼は笑顔で「三上燿一といいます」と答えてくれた。するとその瞬間、何故かあの“死神”が目の前に現れた気がした…。
“死神”に取り憑かれた天才脚本家がアマチュアカメラマンと出会う物語に、読者からは「映画のような作品」「圧倒された」「のめり込んでしまった」など多くの反響の声が寄せられている。
――「紙の舟で眠る」を創作したきっかけや理由があればお教えください。
物心つく頃からこの国の「昭和」という激動の時代に大変惹かれるものがあり、いつかテーマに描いてみたいという気持ちがありました。漫画家として初めて単行本で出させていただいた前作がアメリカを舞台とする物語だったこともあり、この機会に自分の中に長年温めてきた「昭和」への思いを今作にすべて込めてみようと思ったのです。
構想段階から、この物語が本体表紙のカラクリも含めて北原憬という脚本家が書いたという形にしたいと考えていたのですが、日本の戦前から戦後にかけての銀幕世界に憧れる気持ちも強くあり、今作を通じて当時の映画作りに携わる方々の情熱に私自身が繋がってみたかったという想いもありました。
戦争によって生命の尊厳と文化が破壊され、人格にまで影響を与えるようなトラウマティックな体験をされた方々の創作には、地べたを這うような生命と魂の慟哭が泥臭くむせ返っているように私には感じられます。それは破壊と再生に流転するひとつの生命現象のようにも思われるのですが、当時の創作者の心象に戦後の時代がどのように影響を与えたのか、未熟ながらも拙い私なりに表現してみたいと思いました。
当時の映画や小説に触れると、人々の情念が創作という「いきもの」の血肉によって蠢いている、また、戦後という時代の様々な不条理に翻弄されることで、本来眠っていたはずの魂の叫びが剥き出しになり、「創る」というより何かに「創らされる」ことでようやく今日1日を生き延びようとした人たちがいたことがわかります。現代に生まれ生活する私には到底想像や理解が及ぶものではありませんが、そんな姿を主人公に込めてみたかったのです。
ですから北原憬と三上燿一は、そのような時代に対する私の印象を2人の人間に分けて擬人化したようなキャラクターです。その意味においては、2人が素肌で愛し合いひとつになる場面は特に大切なものがあります。宿命を抱えたこの2人に私の思い描く「昭和」という時代を託してみようと思ったのですが、結果的にはむしろ、私自身が2人の思考や選択に押し流されるような感覚で描き上げることになりました。
――本作を描くうえでこだわった点があればお教えください。
主人公2人のキャラクターに関しては、こだわりというより彼らに導かれたという方がいいかもしれません。北原憬は幼少期のトラウマ体験と、自分が書く脚本のモデルが立て続けに死んでしまうという「呪い」に長年苛まれ苦しんでいる人間です。幼少期に小説家であっためったに会えない父親と初めて会った母親が本懐を遂げるために2人で身投げをするという心的外傷を負った青年が見る世界は、およそ現実感のないものなのではないか......果たして自分は生きているのか死んでいるのか、それは現実なのか彼岸の出来事なのか、それとも自分が書いている言葉が紡ぐ夢想の世界なのか、そんな迷妄に囚われることに自ら依存してしまっているキャラクターです。
それでも生きるために書かずにはいられない、生きるために狂ってしまうことを無意識に選び、どこかでそんな自分に酔っている。根源的な生への欲求に翻弄されながら、北原憬にとっての創作の源が三上燿一という人間の形をして目の前に現れたらどんな風に振る舞うだろう、両親の身投げという暗い過去に蓋をして、どのように彼を愛そうとするだろう、そして燿一も市電事故で母親が自分を庇って死んでしまい、チャブ屋という愛欲と情念の吹き溜まりで育った経緯がありますから、お互いに共鳴し依存し合いながらも、空虚な心をどのように埋め合おうとするだろうという私自身にとっての思考実験でもありました。
また、冒頭の市電事故は憬と燿一にとっての戦争のメタファーとして描きましたので、そのように物語を読み進めてくださるとまた違った見方ができるかもしれません。
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