漢・村田修一が打者として立ったきっかけは“挫折”… 松坂大輔の影響力と当時の選択を振り返る<ダグアウト!!!>

2024/02/20 12:00 配信

バラエティー

漢・村田修一が打者として立ったきっかけは“挫折”※提供画像

野球場で試合中の監督や選手が待機するベンチのことを意味する“ダグアウト”。野球選手やOBをゲストに迎え、まるで“ダグアウト”にいるような空気感で、ディープな野球トークを繰り広げる番組「ダグアウト!!!」(毎週火曜夜10:00-11:00、BSJapanext<263ch>)。2月13日の放送では、横浜ベイスターズの時代の元チームメイトである村田修一石川雄洋コンビが登場した。

オシャレな2人の現役時代


13日放送のゲストは“漢・村田”の愛称で現役時代から現在に至るまでファンに親しまれている村田修一と、横浜時代に初代キャプテンを務めた石川雄洋の2人。MCのますだおかだ岡田圭右は番組冒頭、「初めてちゃう、テレビでメガネかけたの」と今回も気合いが入っていることをアピールした。「2024年、今年はオシャレに行かんとあかん」と始めからブーストがかかっている。

そんな岡田に対して「モテようとしてませんか?」と鋭いツッコミを入れるもう1人のMC・平井理央。まさかのツッコミでたじたじな岡田へ「慌ててます?」とさらに追い打ちをかけ、スタジオを笑いで包んだ。

ちなみに岡田がオシャレに気合いを入れていた原因は、ゲストの村田と石川が球界の誇るオシャレ番長な2人だから。「負けてはいけない」という謎の対抗心から、衣装に気合を入れてきたという。

たしかに石川に関しては、現役時代から野球選手には珍しく長髪姿でプレーをしていたことでも話題となっていた。岡田が「昨今は野球選手でもロン毛が増えているが、その先駆けとなったのが石川選手だと思う」と水を向けたところ、石川が「ありがとうございます」と食い気味でお礼を言ってスタジオの笑いを誘う。

当時は髪の毛が長い野球選手は物珍しく、やはり周囲から「髪切れ!」と指摘されることが多かったという石川。そんな当時の石川のようすを聞かれた村田は、当時自身も相当ヤンチャしていたことを明かす。髪を染めたり、ラインを入れたりしていたというエピソードも飛び出し、「短いなりに色々楽しんでいた」と当時を楽しそうに振り返っていた。

「横浜は自由なん?」2人が髪型や身だしなみを自由に楽しんでいたという話に、岡田が切り込む。すると村田は“注目されたい”という思いはあったものの、「巨人が新聞の一面をドーンと飾る。横浜は、逆転勝ちをしてもちっちゃく載るだけだった」とチーム自体の注目度が低いと感じていたことを語った。

当時ドラマ「ROOKIES」が流行していたこともあり、同じ髪型をして試合で活躍したら注目が集まるのではないかと考えていた側面もあったそうだ。ある意味、チームへの愛とも言えるだろう。

「なんぼのもんじゃい、こっちは博多もんじゃ」に隠された意外な心境


番組の人気コーナー「球界アレコレ相関図」は、それぞれのお題に沿う関係者の名前を挙げるというもの。村田が「負けたくないライバル」に名前を挙げたのは松坂大輔だった。

松坂は「平成の怪物」と呼ばれ、高校時代から注目を浴びていた名物投手。その活躍と影響力はいわずもがな、松坂と同世代の選手たちは「松坂世代」と呼ばれていたほどだ。

東福岡高校時代までピッチャーをしていた村田は、甲子園の舞台で松坂と対戦。その際は「なんぼのもんじゃい」「なんが横浜か!?こっちは博多もんじゃ!」と九州魂を見せつけていたという。

次の試合に勝てば松坂の所属する横浜高校と対戦すると聞いていた当時高校生の村田青年。松坂が別の試合で投げているようすを見て、「あれ?プロ野球選手投げてない?」「なんかすごいボール投げてない?」「あんなスライダー曲がる?俺のスライダーあれの半分しか曲ってないけど…」とまだ試合をしていないのにも関わらず、弱気になってしまったようだ。

熱い「なんぼのもんじゃい」と気合いがあっという間に消沈したエピソードに、岡田からは「なんぼのもんじゃい、早いな負けるの」と痛いところを突かれた村田。わからないでもないが、あまりにフリとオチの間隔が狭いことでスタジオからは笑い声が。

しかもその後、村田の所属する東福岡高校が勝ち進んで松坂の所属する横浜高校との対戦が決定。前の試合では150キロの豪速球を投げていた松坂は、試合前のインタビューで「次の試合では2桁三振で行きます」と意気込んでいたという。

それを見た村田は、「あの野郎…でもあんなにボール曲ってたら三振するなあ」と複雑な心境だった当時の心境を吐露。しかしこちらも福岡代表、九州代表として甲子園に出ている村田率いるスポーツ強豪・東福岡高校だ。

コールド負けなど喫すれば、地元に帰ったとき「あいつらヘボかった」と言われてしまうかもしれない。そんなことが頭をよぎった村田たちは、「できるだけ僅差で負けよう」という話し合いが持たれたという。当時の松坂は同世代の野球少年たちに「勝てるレベルではない」と思わせるくらい、異次元の強さを見せつけていた。

プロ入り間違いなしと言われるピッチャーの強さに圧倒された村田。松坂のレベルを追い越したり、追い抜かれたりということをするのは厳しいと感じ、次進むのであればピッチャーを辞めたいと申し出たという。

しかしその瞬間、「あのボールを打ち返す人になりたい」という思いが村田のなかに生まれた。村田は松坂に“投げ勝つ”のではなく、対戦して“打てるようになりたい”という思いで心機一転。

松坂と同級生ではなかったら、もし甲子園で対戦していなかったら、「ピッチャーとしてまだイケる」と思って投げていたかもしれない…ひいては、プロに残れていなかったかもしれないと自身の野球人生を振り返る村田。ライバル的な存在だった松坂が、ある意味プロに導いてくれたという数奇なエピソードだ。