国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第2回は、母の自己犠牲についてお届けします。
西瓜を縦に切る人がいるのだと知ったのは、母がそう言ったからだった。食べやすくサイコロ状にするためではない。半割の西瓜を縦に切って真ん中を子どもたちが取り、お母さんは端っこが好きなのと言って端から一切れ取っていたのを見て驚いたのだという。父方の門司の祖母、京子のことだった。父はそれを聞いてややあってから、僕はちいさい頃、お母さんはほんとうに端っこが好きなのだと思っていたよ、と言った。巷に溢れている話だろう。桃の実を切り分けて大きい真ん中を取り、子どもたちにいいな、いいなと言われるお母さん。大人になってから桃の実には大きな種子があることを知った、など。もうそんなに一般的な話だとは思わないが、母親の神話はこうして作られてきた。母親の自己犠牲にはどこかしら、しんとした感じの感動が伴う。「私、自分を犠牲にしてるのよ」とはけっして言わない彼女たちは、自らの語り部ではない。
台所に立つ割烹着の後ろ姿や、裸電球の下、晩(おそ)い時間に繕い物を間に合わせようと針と糸を持つその人の鬢(びん)に目立つ何本かの白髪といった風景は、日本人の郷愁の中にぼんやりとなずんでいる。わたしにとって、祖母京子のイメージは有吉佐和子の『紀ノ川』そのものだった。躾に厳しく教育的で家風を重んじ、近所からは大奥さんと呼ばれて始終付き合いを重ねて立ち働いている。姑や小姑、夫が亡くなって彼女を叱る人がいなくなり、園芸や漢詩の勉強など趣味に生きるようになってからも、祖母は時間を一切無駄にしようとはしなかった。ある日突然木彫りを始めて、家の欄間(らんま)や衝立(ついたて)、ランプシェードなどを一つ一つ彫っていった。本人は謙遜して、お師匠さんのようにはいかないのよというのだが、素人目にはプロの仕事にしか見えなかった。夜、ラジオを聴きながら薄っぺらい布団に横になったその背中や腰を圧すとき、柔らかくへたった浴衣地越しに感じる肉体のちいささは、その下に頑固に凝り固まった働き者の骨や筋とは対照的だった。毎日の生きるための作業を決して怠ることなく、倒れるその日まで彼女の生き方は営々と続いた。
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母方の茅ケ崎の祖母はもっとハイカラな人で、少しがらっぱちな話し方を好んでする人だった。宮内省に勤めていた家なのに東京日日新聞の記者になったというので、いったんは勘当された跡取りの文学青年、その家の末っ子に生まれたので季子という。慶応のラグビー部の主将だった青年、辰次郎と結婚したが、戦後、世間知らずのボンボン育ちの夫のために血の滲むような苦労をさせられたという。夫の失敗をいつも自ら働いては補填し、呉服屋を始めて潰した後始末もし、合間に幾度もの流産を経験して、子どもを二人無事に産んだ後はいつも煙草を喫(の)んではぶらぶらとしている夫の世話をしながら会社を切り盛りした。人間として豪快なタイプで、まったく動じるということがなかった。残念なことに、まだわたしが子どものころに亡くなってしまった。ほんとうにおばあちゃん子だったわたしは、学校の後によく自転車を漕いで遊びに行ったものだ。午後中ふたりでお茶をしては、話に興じる。隔世遺伝なのか、わたしがいちばん似ているのはこの人だと母はよくいう。話し好きで気風(きっぷ)がよくて、何でも他人にやってしまう人でもあった。この人がもっと長く生きていたら、と思うことはよくある。きっと何もかも話せただろうに。
わたしの母はそうやって忙しく外で働く母親の不在が悲しく恋しくて、20代前半で専業主婦になるという決意をした。そのきっかけを作ったのは有名な美学者であった指導教員だった。彼は研究生の彼女に、もう二人目が生まれたんだから家庭に入りなさいと言った。今であれば、きっと炎上してしまう言葉だろう。高校まで清泉女学院で厳しいカソリックの良妻賢母教育を受けて育った母だが、音大と迷った末になぜか東京大学を受験し、そこでクラスメートの父と出会ったのだった。まだ学者の卵であった父を支えつつ、二男三女を育て上げる中で様々な苦労をしたのを、わたしは幼いながらに見てきた。子煩悩でまじめで融通が利かず、とにかく歯止めのない母性に溢れた人でもある。
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