【連載】なぜ男女の揉め事は拗れるのか、三浦瑠麗氏が考察/「男と女のあいだ」#4 分かり合うことはできないのに

2024/09/11 18:00 配信

芸能一般 コラム 連載

三浦瑠麗氏連載「男と女のあいだ」バナー@Ari HATSUZAWA

国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第4回は、「男女の理解」についてお届けします。

#4 分かり合うことはできないのに


女は不可解である、といわれる。こちらから見れば男も不可解である。不可解とは、論理に遵(したが)って読み解くことができないということ。最近でこそ、そんなことを述べにくい雰囲気も出てきたが、いまだに真正面から「女は非論理的だ」と断じる人もいる。
しかし、そもそも人間の論理というのはそんなに確かなものだろうか。共有された定式的な表現方法を通じて、何となく分かり合っているかのように思い込んでいるだけではないだろうか。

論理的思考は物事を抽象化する能力を必要とするけれども、それは常に何かを捨象することで成り立つため、事象を説明しきることは決してないし、論理だけで人間の考えが成り立っているわけでもない。論理的な正しさというのは、いくつかの前提を受け入れたうえで、様々な条件を積み重ねた限定的なものでしかないからだ。それに、感性を抜きにして論理のみで世界を把握し理解するのは、料理から匂いや見た目を消し、言葉から音を奪うことに等しい。

感性がいかに多くの領域を占め、わたしたちの自己定義やコミュニケーションを扶(たす)けているか。それを知るには、論理的に説明できないものを伝える際のもどかしさを体験してみればいい。例えば、自分が見た夢を言葉にしようとすると、あの微睡(まどろ)んでいる最中(さなか)に受けた感じがまるで再現できないという経験をした人は少なからずいるだろう。「あの感じ」が表現できないということに苛立ちを覚えるのは、その夢を見ていない人に共有したくても、言葉にするのでなければなかなか他に方法がないからだ。

言葉にせずとも伝わるものはある。例えば、赫々(あかあか)とした大きな太陽が林立するビルの向こうにゆっくりと沈んでいくのが見えるとき、傍らの人にその感じを伝えたければ、あ、と言って指さすだけで足りる。その人は「すごい夕陽だね」と答えるだろう。それで通じるのは、その人もいま同じものを見ているからである。また、日記に「今日の夕陽は赤くて大きかった」と記したとすれば、それを読む人にはどんな感じだったかがすぐ分かる。共通体験としての「あの感じ」が言葉の不足を補ってくれるからだ。それは目の錯覚に過ぎないのだけれども、わたしたちは赤い夕陽が大きいことを「知っている」。人生の中で、幾度かにわたってそれを経験してきたからである。

けれども、見たことのない他人の夢について語られたとしても、話者の語彙や表現力でそれを描写するのには限界があり、相手がそれを理解する可能性は著しく低い。つまり、感性のほとんどは「体験」によって見いだされ、その中でも言葉や旋律や映像に転換されえなかったものは、捉まえたと思ったそのそばから指先をすり抜け失われてゆく。だから、目覚めた直後には、あれだけ覚えておきたいと思った夢の「あの感じ」をわたしたちはなかなか覚えていられない。わたしたちの脳は、発達という名のもとに取捨選択する。論理的思考のみを追い求めるのは、ある種の「発達」した知性ではある。論理を共有できる相手のあいだでは、抽出された伝えるべきものが比較的通じやすい。ただ、留意すべきは、それは相手の内なる世界のごく一部でしかないということだ。



男女に限らず、人はもともと偶(たま)さか分かり合える存在にすぎないといえよう。男と女が分かり合えず、そこに語り得ぬものがあるというのは、共感の元となる共通体験を著しく欠いているからである。そして、男と女の揉め事がこじれがちなのは、分かり合えない原因をその欠落に求めずに、論理で相手を打ち負かそうとするから。両者の壁を乗り越える方法は本質的には見つからないのだが、だからといって語ることが無駄であるとは思われない。物の感じ方は人により異なるけれども、適切な言葉が充てられることで火花のように瞬間的に通じ合うことがある。

もちろん、語る上ではその適切な「言葉」を見出す必要がある。伝えるのに適した正確な表現。それに先立ち、自らの感じとったものにきちんと分析的に言葉を充てていくということ。その表現によって感覚が見出され、他者と共有することも可能になる。ここでいう正確であることは、事実であることとは違う。先ほどの夕陽の譬(たと)えで言えば、夕陽が赤くて大きいというのは、人の目にはそう見えるという印象であって必ずしも事実でないが、広く共有された「感じ」であることは間違いない。男と女には、限られた共通体験に想像力を補完して、だんだんと分かっていく過程が必要なのである。

ちなみに、人間というものの特性を考えると、この「だんだんと」というのは見かけ上の響きよりもだいぶ重要なことだと思っている。ここまでの記述を仮に一文に要約してみたらどうだろうか。
「男と女は最終的には分かり合えないが、それは性によって人生における経験が異なるからであり、過去の経験や自分の感情を言葉で表現し、共有することは無駄であるとはいえない」。
この一文だけを読んで分かったと言える人は、すでに幾度かにわたってこうしたテーマを扱う著作に触れたり、考えたりしたことがある人だろう。おそらく考えが沁み込むには一度だけでは足りず、再三読み返したり、自分の経験に照らし合わせてみたり、会話の中で誰かに指摘されるという作業があったのかもしれない。

あるいは、「分かった」と思っていても本当はそうではない場合もある。論理をなぞって主張の整合性を確認し、矛盾や遺漏(いろう)が少ないと結論づけたにすぎず、別の場面ではまったく逆行する主張に賛同したりする人もいるかもしれない。人間が物事を「分かる」という過程は、言えば分かるだろう、というほど簡単なことではないのである。
だからこそ、様々な方向から問題にアプローチし、言葉を幾重にも重ねる。正確な表現を模索し、他者に向けてその意味するところを照らし出そうとする。念のためにことわっておくと、ここでいう正確さとは、(限定された対象範囲における事実の認定と論理展開の正確さを意味する)学術的な「厳密さ」とは意味合いが異なるし、正義としての「正しさ」とも関わりがない。