【連載】なぜ男女の揉め事は拗れるのか、三浦瑠麗氏が考察/「男と女のあいだ」#4 分かり合うことはできないのに

2024/09/11 18:00 配信

芸能一般 コラム 連載

正確さと正しさがどのように異なるのかについては、もう少しだけ言葉を足しておく必要があるだろう。本連載を貫くテーマであるところの、男女の問題にどのようにアプローチするかという手法の違いにも関わってくるからである。

言葉の正確さを追い求める人は、過去の創作物を読み耽り様々な言葉の用法を会得し、引用に新たな創作による発見を加え、自らの言語表現を確立させてきたという歴史がある。それでもまだ語りきれないと感じ、自らの認知の歪みを知り、あるいは言葉を操る人間の暴走を目撃することで知の限界を認識し、その恐ろしさについても語ってきた。
ところが、そこへ正義が割って入るとどうなるか。本来、べき論と表現の多様性とは相性が悪い。べき論を極限まで推し進めれば、「全ての人が、誤解が何もないように、正しい話法でもって、この一つの正しい真実を発話すべき」ということになるから、言葉は瘦せていく。

例えば、女性の権利意識の自覚によって新たに広がった「ものの感じ方」の領域は実に大きかろう。人口の半分を占めていた人々の声なき声に言葉が与えられ、家事育児労働の内実から、差別の炙り出し、母であることと働くこととの両立の困難さまでが語られるようになるからである。わたし自身、過去の女性作家の著作物に触れることで、そのような言葉を内に育てていった。だがその反面、女性問題の正義が十分に認知されて定説と化していけば、その視角によって見出されるものと失われるものとのバランスは崩れていく。本当は、男女の差について記述することも、女性についてあるいは男性について記述することも、難しいからである。常に語りえないものが残り、手探りの状態であると思わねばならない。ただ、人文の観点からすれば、多様な感覚は興味深い題材となるが、正義の問題となれば、感じ方の逸脱は不正な権力の「内面化」であるとされやすく、仮に女性であったとしても批判の対象となる。すると、批評はそもそも不可能である。



かくして、正義が打ち立てられると、安全の観点から誰もが口を開けば同じことしか言わなくなるので、自らも完全には掴めきれていない多様な感覚の模索や、異なる見地からのコミュニケーションの意義は失われる。正義に対するカウンターもまた激しくなり、こちらも同じくひとつ事しか言わない。声高な反対者もいるのに、どうして多様性が失われるのかというと、正義というのは文学とは違って「自ずと明らか」なものであり、則ち「万人が分かるものでなければならない」と考えられがちだからだ。すると、大多数の人は自分がすぐに理解できないもの、予め知らされていないもの、定式表現からの逸脱は、間違っているのに違いないと思い込む。

正義の応酬が続くと、自らとは異なる感性の広がり、知覚の深度を他者が持っていることを許容しえなくなる。近年とみに進んだ現象だ。そうやって、事物や感じ方の複雑さは排除されていくのである。現代に生きるわたしたちのコミュニケーションは、ただでさえ大変な不自由をきたしている。SNSで正しさをぶつけあう諍いは観客を必要としており、その観客を意識した結果として擬態し、大勢が共感可能な型に自らを嵌め込む。その結果、自らの望みにはつれなくしてしまう。今は望みよりも何よりも、相手を糾弾する正義こそが王者なのである。そのような形で、果たして男女のあいだに横たわる問題が解決できるだろうか。

正義のぶつけ合いが解ではないのだとすれば、一体どんな言葉で何について語ることが必要なのだろうか。男と女が交信するうえで、互いを理解する「共通言語」として論理的説明を用いれば、ある程度の助けにはなる。けれども、それは時にどちらかの論理を受け入れる結果を招き、もう一方がそれに寄り添う非対称な関係をもたらすこともしばしばである。論理は話者により合目的的に選び取られた言葉であるし、論理をこじつければ、それは意思を通すための理屈でしかない。世の中の男女の諍いの多くに付き纏う問題だろう。自己中心的な人ほど、自らの論理体系を崩しはしない。そういう共感能力を半ば欠いている人に共感を求めるのは、そもそも無理なことなのかもしれない。

カナダ滞在中に訪れた、逞しく生える森の木々の根本人提供写真