コミックの映像化や、ドラマのコミカライズなどが多い今、エンタメ好きとしてチェックしておきたいホットなマンガ情報をお届けする「ザテレビジョンマンガ部」。今回は、『私たちに「戦後」はなかった』を紹介する。作者の尾添椿さんが、8月15日にX(旧Twitter)に本作を投稿したところ、1.4万件を超える「いいね」やコメントが多数寄せられた。本記事では、尾添椿さんにインタビューを行い、創作の裏側やこだわりについて語ってもらった。
現在の中国の東北地方からロシア沿海地方にかけての地域の呼称“満州”。満州と聞くと、「満州事変」が連想されやすい。
漠然としたイメージの満州。満州事変が起きる前はどのような場所だったのか、尾添さんが20年前に聞いたことをもとにこの漫画は描かれている。
小学校4年生から6年生の秋まで、尾添さんは祖父と暮らしていた。大正生まれで戦争を2回経験していた祖父は、常に目を伏せて俯きがち。左肩には大きな刀傷があり、痩せ細った体には傷跡がたくさんあった。調子が悪い時は、ずっと寝ている。
1931年に満州建国の際に従軍し、塘沽停戦協定が成立した後に帰国した祖父は、療養生活を経て、尾添家に婿入りした。そして、子供が二人産まれた後に、約2000キロ離れた土地へ移住した過去がある。
尾添さんが11歳のある秋の日、循環器の検査で入院してから祖父の様子が変わった。体調を崩して、寝込むようになってから、祖父は昔の話をすることが増えていた。
「なんでみんな満州のことを話したがらないと思う?」と尾添さんに問いかける祖父。「酷いことがあったから…?」と尾添さんが答えると――。
この漫画を読んだ人たちからは、「自分の経験からは逃げられない」「凄まじすぎて言葉が出ない」「生き地獄にも程がある」「『壮絶』の一言」など、多くのコメントが寄せられている。
――『「私たちに「戦後」はなかった」第1話』を創作したきっかけや理由があればお教えください。
昨年度、パスポートの関係で戸籍謄本をとりました。その時に両親の名前が見えて「分籍しても見るのか」と色々思い出し(『生きるために毒親から逃げました。』イーストプレス刊)祖父母のことも思い出してみたら色々と忘れていることに気付いて、漫画にしてSNSに投稿しました。
反響の大きさにも驚いたのですが「毒親の親、祖父母や曾祖父母にあたる人物が満州育ちだった。お金はあっても致命的に危険な家庭だった」という方が想像よりもたくさんいらっしゃってメールをいくつも貰いました。
家庭内暴力や虐待を受けた女性たちの声を長年聞き続けてきたカウンセラーの信田さよ子さんは「虐待の影に、夫や父たちの戦争体験を感じることがありました」と語っていて、毒親からの虐待でPTSDになることと、戦争PTSDは何らかの繋がりがあると感じたとき、Amazon kindleに『祖父から聞いた満洲と戦争の話: トラウマとPTSD Kindle版』を投稿し、そこでも大きな反響を頂けました。
そのあと、同じように毒親を持つ友人たちに「身内に戦争いった人いる?」と聞いた時、特に親しい友人たちの先祖が満州に行った経験を持っていたこと、古くからの友人もよくよく聞いてみれば祖父が満州を経由していたことなどを知りこれは描かなきゃいけない、と思いました。
――暴力に溢れていた当時の状況が、臨場感のあるイラストで描かれており、引き込まれてしまいました。本作を描いたうえで「こだわった点」あるいは「ここに注目してほしい!」というポイントがあればお教えください。
第二話の語り手、御子柴さんが追手から逃げて日本に帰るまでのシーンは、何日もかかりました。第三話は、1950年代の北京で生活していた現地の方2名に取材をして描きましたが、取材内容が強烈すぎて一部しか描いていません。画面の中に常に暴力があることを意識して描いています。
かといって掲載できなさそうな暴力描写は描き起こしていないので、全ての人が「ある程度の衝撃を覚悟すれば」読めるものを描くことを意識しました。
エッセイ漫画を描き始めるまでは、暴力描写や犯罪描写のある漫画ばかり描いていたので「ああ、楽しいなあ」と思いながら描いてました。嫌々描いたものは見てもらえないと思うので、センシティブなものを描きなれていてよかったです。
――特に気に入っているシーンやセリフがあれば、理由と共にお教えください。
第二話の語り手、友人の祖父・御子柴尋一さんの「一歩違ったら、シベリアだった」は、本人が強く仰っていたことです。脚が早いこと、運がいいことだけで生き残った御子柴さんの戦争体験を描き起こすのに重要な言葉でした。
よく色んなもので「戦争は終わってない」という言葉を見るんですが、具体的にどう終わってないんだ?と突き詰めていったときに「外人見て嫌な顔する俺みたいな老人がいる時点で戦争は終わってない」は、それの最たるもののひとつだな、と…。
「死ぬときは畑で死にたい」も、働くことを選び開墾し続け、戦争を終わらせない選択をした御子柴さんの諦めが詰まったセリフです。以前から、家族というものは呪縛になると考えていて(『こんな家族なら、いらない』イーストプレス刊)その呪いに立ち向かうことになった高校からの友人・このえさんとその母方祖父が対峙する第四話の「これが家族なのなら血のつながりなんて呪いでしかないと思う、この呪いをかけたのは…」から始まる、このえさんと祖父が語り合うシーンです。呪いの正体を暴くシーンはテーマに相応しいと思いながら描いてました。
――普段作品のストーリーはどのようなところから着想を得ているのでしょうか?
暇があれば映画を見て、気になったところを後で調べて意味を知るところからだと思います。現在ある問題の根っこって歴史的背景にあったりするので、気になったルポタージュ本を読んだりします。第三話は文化大革命が時代背景ということもあり、取材後に関連書籍や映画を複数見て描きました。
――作画の際にこだわっていることや、特に意識していることはありますか?
個人のこだわりなんですけれど、人種の描き分けを意識してます。デフォルメで描けばいいんですけど、そのデフォルメがあまり得意ではなく…かといって同じ絵柄と線にしてキャラクターの見分けがつかなくなるのが好きではなくて、骨格標本とか見ながら描いてます。
――今後の展望や目標をお教えください。
漫画を描き続けることです。
――作品を楽しみにしている読者へメッセージをお願いします!
「平和ボケ」って言葉を聞いたことがあるのですが、この漫画がこれだけ読まれるということは平和でボケてないと思います。
この言葉って、PTSDの症状で脳内が傷だらけの人が「どうして自分だけが記憶に苦しめられているんだ、みんながおかしいに違いない」と思って発した言葉だと思うので言葉狩りをせず、思想を狩らず、まず話を聞く場所や精神医療がもっと普及すればいいなと思いながら描いています。読者の皆様に感謝。
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