プロレス、F1、夜のヒットスタジオ…古舘伊知郎が“マイク一筋40年”のアナウンサー人生をプレーバック!

2017/09/20 08:00 配信

バラエティー

週刊ザテレビジョン創刊35周年のメモリアルとして、本誌を彩ってきたテレビスターたちがテレビとの思い出を語るSPインタビュー企画を連載中。第2弾に登場するのは、マイク一筋40年のフリーアナウンサー・古舘伊知郎だ。

’77年、テレビ朝日にアナウンサーとして入社以来、「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日系)などを担当し、鋭敏な語彙センス&ボルテージの高い過激さで独特の“古舘節”を確立。'84年のフリー転身後は司会者としてあらゆるジャンルのバラエティー番組に出演し、'04年には「報道ステーション」(テレビ朝日系)で報道キャスターも務めた。そして'16年春、12年間務めた「報道ステーション」を離れ、古巣であるバラエティー番組の世界に帰ってきた古舘。今やテレビ界随一のしゃべり手と称される彼のテレビ人生は、この国が“戦後”を脱し高度経済成長期へと向かう50年代末のある日、“魔法の箱”が彼の家に届いたことから始まったという。

モノクロのプロレス中継に夢中だった少年が実況アナウンサーに


週刊ザテレビジョン創刊35周年企画のスペシャル連載第2弾には、フリーアナウンサー・古舘伊知郎が登場!撮影=横山マサト/取材・文=magbug


「まさに映画『ALWAYS 三丁目の夕日』('05年)で描かれた時代です。幼稚園のころ、それまで街頭やおばあちゃんの家でしか見られなかったテレビが、自分の家にやってきた情景を覚えています。当時のテレビは今思うと、モノクロだった映像に頭の中で色を塗るという行為が、ワクワクして楽しかったですね。プロレス中継でも、銀髪鬼フレッド・ブラッシーがヤスリで研いだ歯で日本人レスラーの額を切って流血させる、そのどす黒いモノクロの血を見た時の想像は、後にカラーテレビで見た真っ赤な血より、ずっと怖く感じました。赤い血を『あ、違う』と思ったほどです。ブラウン管式は厚みもあったので、その"魔法の箱”の中に入れないものかと考えるわけですね。映画『リング』(’98年)の貞子はテレビから出てきましたけど、まさに“逆貞子”ですね」

’64年の東京五輪は、小学校4年生のころ。同級生がプロレスごっこをする様を実況して、将来への研さんを積んでいた逸話は有名だ。

「僕がテレビ朝日に入社した’77年は、モスクワ五輪(’80年)独占中継のためスポーツアナを多く採用した年だったんです。入社試験で映像に合わせて実況するとき、叫びまくったものだから、その時点から賛否両論。運良くプロレス担当になれましたが」

そう謙遜するが、「ワールドプロレスリング」では、膨大なボキャブラリーに過剰な修飾表現、“事件”が起こった際のアドリブ力が“古舘節”と話題を呼び、あっという間に人気アナの座に上り詰める。

「事前にキャッチフレーズや言い回しを用意してメモったり、頭の中で繰り返し練習したりする準備は大切でしたね。普通に実況すると『今、(アントニオ)猪木選手が入場して参りました。3本のロープをくぐり抜けて行った』となるのを、逆にしたらどうかと。『3本のロープが、今猪木を迎え入れんとしております。マットが揺れています』って、揺れてないんです、嘘なんですけれど、それは事前に練っておくんですね。あり得ない擬人化をしていく。と言っても、用意していた内の7~8割はボツになりましたけどね」

こうして「プロレス的言語表現」のパイオニアとなった古舘。やがて彼にとってのプロレスは、実況の対象にとどまらず、物の見方にまで影響を与える大きな礎となっていった。

「プロレスの、破天荒で想定外、建前があるのに裏もある、ケレン味というんですか。それが『世の中模様』だと思ったんです。だって世の中、きれい事を言っても必ず裏があるじゃないですか。不倫はダメ、マナーは大切、そう言ったって人間、時折はみ出したりする。清廉潔白には生きられない人間の、危うさの上に成り立っている世の中でしょ。プロレスは容易にそこを超えて、現実やだましを魅せてくれる。要はそういう禍々しさやカラクリを楽しんじゃおう、ということです。ニュース番組をやっているときも、どこかにそういう視座は持っていましたね」

実況アナとして一世風靡&フリー転身でさらなる躍進


インタビュー中も“実況節“が飛び出すなど、古舘はやはり生粋のアナウンサー!撮影=横山マサト


古舘に最初の転機が訪れたのは、'84年。構成作家・腰山一生氏との出会いから、フリー転身を考える。

「もう彼は亡くなってしまいましたが、同い年で。ある番組で仲良くなって意見交換するうちに、彼のような作家とコラボ出来たら、自分の領域が広がるだろうな、スポーツ中継だけでなく、バラエティや、いろんなことをやりたいなと思えたんです」

その夢は、次々に現実のものとなる。テレビ朝日退社後は「笑っていいとも!」(’82~’14年フジ系)のレギュラーを皮切りに、あらゆるジャンルの番組に出演。プロレスファンにのみならず、新世代の司会者としてその名を全国にも轟かせるようになる。プロレスと並び今も語り継がれるのはフジテレビの「F1グランプリ」(’89~’94年)での実況だ。

「あれはF1というものをあまり知らないまま、見切り発車で出ちゃってウケ狙いばかり言ってましたから、批判もすごかったですけどね。フェラーリのピットイン時に『10秒以内にタイヤ4本を交換せねばなりません。それはまるで、30分を超えたら700円取られてしまうピザの宅配業者と全く同じであります』とか。F1好きの方は『ピザは頼んでない!』って話ですよね、怒られました。フジテレビに1200本の抗議電話殺到、という“金字塔”を打ち立てましたから。局アナを抑えてぶっちぎりですよ(笑)」

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