自らが直面した暴力に飲み込まれず、それに感情を支配されないためには、暴力行為そのものに焦点を当てるのではなく、それを行う人間に焦点を当てて考える必要がある。そうしてみると攻撃者の姿は案外陳腐である。暴力や支配はセンセーショナルなので、その烈度が人の目を眩ましがちだが、その実は比較的単純な行為だ。烈度を高めることで、相手から短期的に何かを引き出すことはできても、人間の知を高めはしない。痛みや屈辱、従順さという反応をいくら引き出し積み上げたとて、人間は己が知覚できるもの以上のことを把握することはできないからだ。人間を支配することはできても、人間を理解したことにはならない。人体を解剖しても生命の不思議を理解できないのと同じだ。
痛みを悟り、言葉にする。そうした作業を怒りのさなかではなく、あくまでも落ち着いた環境の中で繰り返すことが、総じて人間存在についての理解を深めてくれる。わたしがカウンセラーの助けを得ることもなくどうやって傷を癒してきたかといえば、そういったプロセスだった。
わたしは長らく自分自身の観察者であり、癒し手であった。プロのように、精神事象についての知識や療法についての結論を得ることが目的ではない。目的は知性を失わずに生きることであり、己を盲目にさせる怒りを鎮め、現実世界や肉体という箱に閉じ込められている精神を護り育てることだった。
わたしには他の不安もあったから、おそらくカウンセラーや精神科医に会えば様々な対話ができただろうし、それによって己をより深く知ることもできただろう。ただ、怒りの克服は内面の営みによってできたとしても、痛みの克服は外界と交わらねば果たせない。世界を完全に拒絶するのでない限り、トラウマを抱える人も外界で生きることがどうしても必要な復活のプロセスなのである。その実践においても、わたしは様々なことを見て学んだ。攻撃者はたいてい極端な人間だが、必ずしも世の中は白と黒に分かれるわけではないということ。他者から寄せられる共感の中に潜みこむ欲望や、あるいは痛みについて。
人間の持つ交信手段は多くの場合、自らが発する言葉である。相手に対して想像力を及ぼす過程においても、己が表出する。人の感情や分析は、結局はその人がどういう人間であるかという自己開示を意味するからである。言葉が危険なのはそういうところだ。日々発する言葉、書き留める言葉にさえ、どういう人間であるかという本質が宿る。人々の怒りの言葉の呟きを見れば、その怒りの対象ではなくその人のことが分かるだろう。誰かが他人の痛みに寄り添おうとする時点で、すでに事物はその存在を離れて社会化されている。
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例えば、他者の痛みに寄せる共感には、時にその人自身の欲望も絡んでいることがある。「あなたの痛みを感じる」――これはビル・クリントンが初めてアメリカ大統領選に挑戦した時に用いた有名な言葉だ。クリントンの場合、はじめ自分の発言を妨害しようとした聴衆に、最低限の礼儀を求めるくだりでこの言葉を使った。無礼な相手に、まず自分から敬意を表する。あなたの痛みは分かります。けれども、と彼は言ったのだった。それが外交手腕に長けたジョージ・H・Wブッシュ副大統領に挑む、小州の知事にすぎない彼の存在を象徴する言葉になった。対立する立場にある人のところにも必ず降りていって話を聞き、下から頼む(=共感)。それによって自らの話を聞かせることができる(=欲望)。これこそが「I feel your pain」のレトリック(rhetoric)であった。
レトリックという語は、言葉を美しく巧みに用いるという意味であり、日本語では「修辞」や「措辞」に当たる。いうなれば、相手の心に自らの意思を届かせる目的に即した表現、ということである。転じて、本音とは異なるうわべだけの言葉、という意にもなる。英語ではあるが、レトリックという語がこの世に存在すること自体が、言葉の限界と可能性をともに象徴していると捉えることもできるだろう。多義的な語が、それだけでは自立的な意味として内包していなかったはずの本音、話者の意図にまで広がった世界の大きさをはからずも示しているからである。
わたしの年代以上の多くの人が覚えているように、クリントン大統領は充実した八年間の任期をモニカ・ルインスキーとのスキャンダルで汚してしまった。妻ヒラリーを伴った会見で嘘をついてしまった過ちもそうなのだが、それだけでなく、暴露されたモニカとのやり取りにおいて、彼のばかばかしいほどの人間臭さが明らかになったからである。
性は、暴力的な関係ではなくとも支配/被支配の欲望を伴う、ということを彼は示した。それは、実は他者の痛みに共感する彼の類まれなる資質とも繋がっている傾向だったのである。ホワイトハウスの一研修生だった若いモニカに彼がしたこと、それ自体を、他人であるわたしはそこまで責めようとは思わないし、クリントンの政治家としての魅力を損なうとも思わない。むしろ、人間とは複雑な存在であるということを、彼を見ると改めて考えさせられるのである。
共感が人間にとって必要な大切な感情であるにもかかわらず、これを語る人がしばしば人間というものの複雑さを露呈してしまうのは、ビル・クリントンに限ったことではない。それを分かっていてもいちいち咎めだてしないのがわたしの性格だ。観察者であることは、裁定者であることとは違う。溢れるような共感を働かせ、怒りに駆られて生きる人は、世の中においてはより魅力的に受け取られても観察者としては不備なのである。そして、実際に観察をしてみると、人間というのは必ずしも善と悪で割り切れない存在だし、時に自分自身が暴力性や怒りを発散しながらそれを燃料に変えて生きる存在でもある。
人間はいつでも生と死の狭間に生きている。トラウマとともに生き、トラウマを飼い馴らすことはまさに人間をより深く知るという作業に他ならない。
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