「お前が何を意図し、どう感じたかは問題ではない。私たちがどう受け止めるかが重要なのだ」――例えばこうした表現には、数の力を持ち、主流であることを恃(たの)んだ主体性の模索という自家撞着(じかどうちゃく)が見て取れる。自分自身がどう感じるか、どう物事を視たか。それを基準として考えを述べることは主体性の発揮である。しかし、「私たちがどう感じるか」というのはまた違うことを意味する。客体的な外部視点の集大成として主観を形成する人々が、他者にその判断結果を押し付けるとき、そこに個々の主体性は存在しない。男が女に同じような判断尺度を押し付ける場合も同様である。
だから、男と女について論じることは、本当は見かけほど容易いことではなく、実に難しいことなのである。例えば、「女性は長らく男性の所有物として、金銭や家畜を対価として取引可能な存在として歴史的に位置づけられてきた」と述べることは正確な表現だろう。その実例はいくらでも挙げられるし、法制度と社会慣習の歴史を紐解けばただちに跡付けることができる。だが、男性優位社会とは何であったか、という視点で過去の歴史を再構成することはできても、ではわれわれ(女)とは一体何なのかという問いに答えられぬ限り、そこから一歩も先には進めない。男とは何かという問いもいまでは同じ運命にある。
◆
このことをわたしが痛切に感じているのは、戦争を著作の題材として扱ってきたからだ。文化人類学や歴史研究の蓄積によって、資源をめぐり集団間の紛争が起きるインセンティブ構造は説明できる。環境により集団の行動や性質は変わる。「自然状態」が何であるか、という問いにはあまり意味がないのである。意味がないだけでない。自然状態という状態が何であるかをわたしたちは知りえない。同じ種を殺す人間というものの存在を解明することは、個々の紛争を説明する作業とは別次元にある。紛争は説明できても、人間存在についてはそうであるということしか把握できない。したがって、フェミニズムが歴史的な記述と分析を終えて思想に転じれば、女とは仮にこうである、男とは仮にこうである、ということを前提としてしか成り立たなくなる。だが、わたしたちは女が何であるか、まだわかっていないのだ。
現代という時代を見ていると、女がいままで味わってきた客体化による困難を、むしろ規範化して社会全体に拡げようとしているのではないかとさえ思うときがある。例えば、長年にわたり多くの国が姦通罪を妻にのみ適用してきた結果、男女同権が進むと却って反動が生じた。現在の日本では、不倫は男女問わず激しい社会的制裁の対象となっている。女は男の物質的な財産でなくなった代わり、婚姻は相互の性行動の束縛権とそれが損なわれた際の懲罰・求償権を意味するようになった。結婚というのは自由な個人同士の対等な繋がりではなくて、相手に対する己の権利を守るための制度として見なされているようだ。当事者や法の定めを飛び越して、世間や大衆的メディアが掟に背いた者に「焼き討ち」をかけて回っているのも、どこか先祖がえりを思わせる。
つまり、長年の闘争の末に解放されたはずの女性たちは、どうやら客体であることからの自由を手にしていないようなのである。女たちの社会の掟は書き換わりつつも維持され、男性をも対象範囲に取り込んで拡大している。自立した女を危険視する類の男たちの攻撃から逃れるために、嘗(かつ)て女が求めたのは「理解ある伴侶」だった。男性の伴侶の代わりに登場した新たなる庇護者が女性的社会なのだとすれば、それは幾分か危険を含んでいる。女性が何であるかが欲望や衝動によってではなく規範的に定義され、それにすべての人が絡めとられてしまうかもしれないからである。こうした変化を先駆者たちは予期していたのだろうか。
◆
女が連帯する、というのには不思議な魅力がある。女同士で会えば、それが初対面の相手であったとしても友愛の情はすぐに表に出てくる。相手の話に耳を傾け、何を欲しているかを悟ってなるべく相手の望みを叶えようとする。そして相手の話の遺漏(いろう)部分も、あまり指摘することなくやさしく許してしまう。円滑に、円滑に。男性との間ではそうはいかない。はじめに警戒心があり、相手がどういう人間かを見定めなければならない。
「女たちの連帯」から遠ざかって生きてきたのは、男性社会に交わって男のように仕事をするためではなくて、自分自身でいるためだった。あの絶え間ない観察とおしゃべりと自らを客観視し位置づけようとする客体としての「女」の存在がどうも己の姿に似すぎており、近すぎるからだ。女からも男からも一定の距離を取っておくことが、わたしにはどうしても必要だった。
所謂「男」にはならず、女でありつづけながら庇護者を求めないという生き方は難しい。予め分類されたボックスの中に収まった方が楽だからだ。男性には、誰かの所有物であり傀儡(かいらい)であるという疑いが降ってくることはない。しかし、女はむしろその「所有者」が明確でないことが社会に不安を呼び起こす。あるいは逆の事例もある。
君は独りでいる方がいい。男に所有されるのは君には似合わない。ある友人にそう助言されて、わたしは危うくその人と仲違いしそうになった。独りでいることに異議を唱えたのではない。そこには誰のものにもならないというわたし本人の意思ではなくて、そうあってほしいという他者の願望に寄り添うことへの勧奨があったからである。だから、わたしは誰のものでもないと見なされることさえも嫌なのだった。
この記事の関連情報はこちら(WEBサイト ザテレビジョン)