ミューズという言葉がどこか使いにくいものとなり始めたのも、今世紀に入ってからだろう。ミューズは憧れを寄せ、見られる「対象」だからである。その眼差しはいつしか、どこか不快な過去の記憶となった。ミューズであるというのは、他者の基準でジャッジされることである。何が悪いかではなく、何が良いかという基準をもってして、理想を投影されること。しかし、そのような理想が実体であったことはない。そして、いずれ現実とのあいだで不協和音を立てはじめる。こうして、写真家にとってのモデルが、映画監督にとっての女優が、男性作家や詩人にとっての恋人が、それぞれ大っぴらにミューズであった時代が幕を閉じようとしている。
ミューズでありたい女性たちが大勢いたのは確かだ。それが単なる妻や恋人よりも一段特別な存在だったからだ。ジュリア・ロバーツの主演した映画「ベスト・フレンズ・ウェディング」ではその揺らぎが描かれている。ジュリアが演じた主人公を一言で表すとすれば、大きな肩パッドの入った現代版の女神、である。野球観戦をしながら少し下品な冗談を自ら飛ばすことのできる女。自分勝手で、自由人で、一途で、結婚に夢など持たなかったはずなのに、それでも土壇場で自分から求婚する女。
最終的に男は去ってゆくが、それは明らかに彼女との間では自我がぶつかり合い、喧嘩しつづけることになるからだ。妻となる女性(キャメロン・ディアス)はありのままの彼を受容し、愛する。この映画では、同性愛者であることをカミングアウトして長らく映画界で冷や飯を食わされてきたルパート・エヴェレットが、実際にゲイの友人として出演しているのも見逃せない。彼女をもっとも理解してくれている人は、友人にしかなれない。彼女が本当に愛しているのは自分自身なのだから、それも当然なのだ。利己的な者同士のあいだに結婚は成り立たない。ならば彼と多くの時間を過ごす献身的な妻より、唯一無二のミューズでいたい。それが1997年の女の欲望だった。
雑誌の編集者たちは、男性たちの眼差しの代わりに「わたしたちのミューズ」という表現を編み出した。女の欲望を扱う人々はとっくの昔に、大事なのは男の評価そのものではなく、自分たちの憧れであり満足であるということを知っていたからだ。わたしが思春期に差し掛かったとき、すでにジェーン・バーキンは「わたしたちのミューズ」の地位を確立していた。その彼女の実像は、村上香住子さんが新著『ジェーン・バーキンと娘たち』で愛惜を込めて描いている。惜しみなく愛を注ぎ、頑固なほど自然体で、そして多数の憧れの眼差しが寄せられる客体としての自己の存在をよく分かっていた女性。ミューズの纏う神性は残っていていい。その喜びと苦しみが彼女をこれほど大きな存在にしたのだから。
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女はどうしたら自立できるのだろうか。それは難しい問いで、思考錯誤を重ねるしかない。わたしがアドリエンヌのことが好きなのは、そこには借りてきたものがないからである。彼女は常に自らの苦しみと喜び、それが多くの場合同時に存在していることについて語っている。他者についての観察を語る時にも同じ姿勢を貫いている。評論家めいた眼差しもなければ、目覚めた者として厳かに真理を告げるような謹厳(きんげん)な口ぶりもない。皆、彼女自身が母であること、妻であることと、人間であり詩人であることの闘いの中で苦しみぬいて手にしてきたものばかりだった。
母性の中に、女性性の中に、自ら窒息せんばかりになって、そしてそれでもひとりの人間であろうとして、彼女は筆を走らせる。女を自立せしめるものは強い意思である。
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