2019年7月に、ステージ上でいじめを告発した動画がバズり、アイドルを引退した「小野寺ポプコ」。その後、早稲田大学を卒業、カリフォルニア大学バークレー校へ留学し、卒業生代表としてスピーチをしたことも話題だ。そして、現在はonodelaとして活動している。物議を醸したあの日から一体どんな未来に繋がっていったのか、自身の言葉で書き綴るエッセイ「アナーキーアイドル」。連載第5回は、「シアトルへの逃亡」についてお届けします。
2019年7月末にアイドルを脱退してからDJデビューを果たし、翌8月中にはDJセットを背負って新宿、渋谷、秋葉原と東京各地を飛び回っていた。結論から言うと、芸能活動での実りはなかったが、楽しく過ごした一夏だった。
そんな中、8月にほぼ初めての恋人ができた。以前、サークルの新歓で出会った同級生だった。たまにLINEが届く程度の関係で、深く交わることはなかった。所属していたアイドル事務所には恋愛禁止のルールはなかったものの、自分の中では「恋人がいない」というステータスが一種のお守りのような感じだった。
夏休みが始まり、向こうから「遊ぼう」とお誘いが来た。当時、わたしがアイドルだったことを知らなかったようだ。ただ、ちょうどアイドルを退いたばかりで、タイミングが絶妙だった。そして、デートで意気投合し、付き合うことになった。
夏の終わりに、このまま日本で芸能活動をするか、それとも留学に踏み切るべきか選択を迫られることとなった。DJとしてはまだ道半ばで、急激な飛躍を望む段階にはないことは分かっているが……。
ある日、集客が思うように伸びない現場で、ふと「このまま一生ブレイクを果たせないのではないか」恐怖に襲われた。ステージに乱入して脱退したことが話題になったものの、わたしはただの一発屋に過ぎないのではないかと、誰よりも自分自身を疑ってしまった。学生時代からビジネスを学び、順調にキャリアを積んで……と、アイドル活動を始めるまでは両親が敷いてくれたレールの上をただ歩むだけよかったから、何の心配もなかった。安泰な道を周囲の仲間たちと同じように生きればいいだけなのだから。だけど、学業以外の才能で誰かに見つけてもらいたかったから、芸能活動を頑張ってみたのだった。
カリスマ性を観測したくて芸能活動を始めたものの、もしかしたら目の前にいるファンを落とす魅力がわたしにはないのではないかと、不安が心を掻き乱した。その瞬間、元の道に戻りたいという衝動に駆られた。
次の日、インターンをしていた会社や友人、そして恋人に留学へ行くと伝えた。そして、最後の思い出作りとして、恋人と二人で広島旅行に行った。海を眺めながらご当地の牡蠣を堪能し、夜には広島タワーで成人したばかりの私たちゆえの特別なカクテルを手に、少し照れながら乾杯した。帰りの新幹線で、こんなに楽しい時間を共にできる相手と離れても暮らしていけるだろうかと不安が込み上げ、こらえきれずに静かに涙が零れたら、相手も同じように一筋の涙が頬を伝っていた。
留学する前日までライブに出演し、迎えた2019年9月17日。成田空港で恋人とお別れをし、シアトル行きの飛行機に乗り込んだ。短い交際期間から遠距離恋愛が始まったのに、なぜか強く「また会える」と思っていた。これほどまでに相手を信じ、疑念を抱くことなく心を託せてしまったのは、人生のなかで最初で最後の経験かもしれない。
こんな純粋な気持ちだけど、それがかえって寂しさを呼び起こしてしまう。だから、東京で溜めたストレスと共に、アメリカで新しい刺激に浸ってすべてを忘れたいと願った。まるで意地悪な神様がその願いを叶えてくれたかのように、シアトル空港に到着してわずか10分で早速トラブルに見舞われた。
「I-20」という、留学生であることを証明する重要な書類を持っていなかったから、入国審査で見事に引っ掛かってしまった。入国に必要不可欠な書類で、留学生ならみんなカバンにしっかりしまっているはずだけど、その重要性を理解せずに、受け取ってすぐに捨ててしまっていたのだ。
こうして噂の「別室送り」になり、審査官が学校と連絡を取り、わたしの身元を確認することになった。別室はかなり混んでおり、なんと5時間も拘束されることになった。スマホの使用は禁止され、流れているニュース番組をぼんやりと眺めるしかなかった。途中、大勢の審査官グループが部屋に入ってきて、瞬時に皆の視線を集めた。どうやら新しい審査官の講習が行われていたらしく、ベテランの警察官が新人に向かって「ほら、ここにいる奴ら全員、子犬のような目でこっちを見てるだろう?みんな早く出たがってるんだよ」と言い放った。きっとわたしも子犬のような目をしていたのかもしれない。
そしてようやく学校との確認が取れ、無事に釈放されたのだった。
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