国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第11回は、樋口一葉の『十三夜』をもとに籍を入れた女性の「居場所」についてお届けします。
現代の女は離婚をしても「居場所」を失うことはない。昔ならば事情は相当違ったろう。三行半(みくだりはん)を突きつけられ、或いはひとり覚悟をして子どもを置いたまま、女こそが家を「出る」側であり、そして離縁の先の居場所は運が良くて実家、さもなくば行く末の当てもない愛人の許(もと)。最終的にはどこか住み込みで女中や仲居さんをするしかなかった。
樋口一葉の『十三夜』は、いったんは離婚を決意した女の揺らぎを描いた作品である。まるで幸せを絵に描いたかの如く、艶やかに結い上げられた大丸髷(おおまるまげ)の瑞々しさとは裏腹に、阿関(おせき)が悄然(しょうぜん)と帰っていく家も、寝たまま母の帰りを待つ長男太郎も、彼女のものではない。
――御父様(おとっさん)私は御願いがあって出たので御座ります、何(ど)うぞ御聞遊(おききあそ)ばしてと屹(きっ)となつて畳に手を突く時、はじめて一ト(ひと)しずく幾層(いくそ)の憂きを洩らしそめぬ。
父は穏やかならぬ色を動かして、改まって何かのと膝を進めれば、私は今宵限り原田へ帰らぬ決心で出て参ったので御座ります、勇が許しで参ったのではなく、彼(あ)の子を寝かして、太郎を寝かしつけて、最早あの顔を見ぬ決心で出て参りました、まだ私の手より外誰れの守りでも承諾(しょうち)せぬほどの彼の子を、欺(だま)して寝かして夢の中に、私は鬼に成って出て参りました、御父様、御母様(おっかさん)、察して下さりませ私は今日まで遂いに原田の身に就(つ)いて御耳に入れました事もなく、勇と私との中を人に言うた事は御座りませぬけれど、千度(ちたび)も百度(ももたび)も考え直して、二年も三年も泣尽くして今日という今日どうでも離縁を貰(もろ)うて頂こうと決心の臍(ほぞ)をかためました、何うぞ御願いで御座ります離縁の状を取って下され、私はこれから内職なり何なりして亥之助が片腕にもなられるよう心がけますほどに、一生一人で置いて下さりませとわっと声たてるを噛(かみ)しめる襦袢(じゅばん)の袖、墨絵の竹も紫竹(しちく)の色にや出ると哀れなり。
――樋口一葉『十三夜』青空文庫より(原文を現代仮名遣いと新漢字に改め、ルビを振った)。
自ら見染め、無理を押して請い受けたはずの妻に飽いた夫から、酷(むご)い仕打ちを受け、子どもの乳母代わりに置いてやっているに過ぎないなどと悪しざまに言われては虐め抜かれ、女中たちの前でも妻を貶して軽んじるのを、阿関はとうとう耐え切れずに金輪際戻るまいと思い定め、太郎を寝かしつけてから家を飛び出たのであった。それを聞いた母は、まあよくぞそんな仕打ちを娘にしてくれるものだと激怒し、このまま離縁させて引き取ろうとするが、父は踏み止まる。日頃から温和しく忍耐強い娘の、何年越しもの告白に衝撃を覚えつつ、短慮を諫めた言葉は以下のようである。
――やかましくもあろう六(む)ずかしくもあろう夫を機嫌の好い様にととのえて行くが妻の役、表面(うわべ)には見えねど世間の奧様という人達の何れも面白くおかしき中ばかりは有るまじ、身一つと思えば恨みも出る、何の是(こ)れが世の勤めなり、殊には是れほど身がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理、お袋などが口広い事は言えど亥之が昨今の月給に有ついたも必竟(ひっきょう)は原田さんの口入れではなかろうか、七光どころか十光(とひかり)もして間接(よそ)ながらの恩を着ぬとは言われぬに愁(つ)らかろうとも一つは親の為弟の為、太郎という子もあるものを今日までの辛棒(しんぼう)がなるほどならば、是れから後とて出来ぬ事はあるまじ、離縁を取って出たが宜(よ)いか、太郎は原田のもの、其方(そっち)は、齋藤の娘、一度縁が切れては二度と顔見にゆく事もなるまじ、同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け、なあ関そうでは無いか、合点がいったら何事も胸に納めて知らぬ顔に今夜は帰って、今まで通りつつしんで世を送って呉(く)れ、お前が口に出さんとても親も察しる弟も察しる、涙は各自(てんで)に分(わけ)て泣こうぞと因果を含めてこれも目を拭う――(前出と同様)
父は、こうして涙に暮れていながらも嫁して7年、ふと気付けばいかにも大家の奥様然とした娘をまざまざと見、再び粗末な木綿を着せ、身の程知らずの結婚の末はこれよ、鬼母よと世間から後ろ指さされながら、冷水で手を赤ぎれさせて働かせるのは忍びないと呻吟(しんぎん)する。弟が定職にありついたのも、夫の原田さんの御威光のお蔭である。そのうえ、離縁したら太郎とはもう一生会うことさえ叶わないだろう。それでもよいのか、原田家の嫁として泣きながらも太郎の母でいるのか、それとも太郎に会えぬ不幸を抱えて、ただの貧乏人の娘に戻るのかと問うのである。
――阿関はわっと泣いて夫(そ)れでは離縁をというたも我ままで御座りました、成程(なるほど)太郎に別れて顔も見られぬ様にならば此世(このよ)に居たとて甲斐もないものを、唯(ただ)目の前の苦をのがれたとて何うなる物で御座んしょう、ほんに私さえ死んだ気にならば三方四方波風たたず、兎(と)もあれ彼(あ)の子も両親(ふたおや)の手で育てられまするに、つまらぬ事を思い寄(より)まして、貴君(あなたさま)にまで嫌(や)な事をお聞かせ申しました、今宵限り関はなくなって魂一つが彼の子の身を守るのと思いますれば良人(つま)のつらく当る位百年も辛棒出来そうな事、よく御言葉も合点が行きました、もう此様(こん)な事は御聞かせ申しませぬほどに心配をして下さりますなとて拭うあとから又涙、母親は声たてて何という此娘(このむすめ)は不仕合(ふしあわせ)と又一しきり大泣きの雨、くもらぬ月も折から淋しくて、うしろの土手の自然生(しぜんばえ)を弟の亥之が折て来て、瓶にさしたる薄(すすき)の穂の招く手振りも哀れなる夜なり。(前出と同様)
徒(いたずら)に美しく生まれたがために、身分不相応の結婚をして虐め抜かれ、毎晩布団を涙で潤し、夫の侮蔑に奥歯を嚙みしめながら唯々子供のために生きていく。そんな不幸を一身に背負って、阿関は帰る。車を拾って、物思いをしながら家へと向かうが、そんな折も折、会話があって、車夫をよくよく見てみると、なんと17歳で原田に見初められるまでは将来一緒になるものと思っていた恋仲の煙草屋の息子、録之助の、放蕩を重ねて落ちぶれ果てた姿だった。二人が夫婦(めおと)になっていたならば、恋が引き裂かれ自暴自棄になって録さんが身を持ち崩すこともなく、我が身も目いっぱい良人に愛されていたかもしれないのに。
言葉にならぬ関の思いは、一通りの身の上を話して恥じたのちはどこか薄ぼんやりとしてしまった録之助と、どんなに不幸とはいえ愛する子どもがいて、御大家に帰ってゆく自分との境涯(きょうがい)の差に辿り着く。傍目には、他人の不幸は分からない。只の車曳きと思っていたうちはそれこそ奥様然としてやる気のない車夫を叱っていた自分の言葉つきに、身形物腰に、もはや原田家の嫁となってしまった身の上を悟ったのであろう。過ぎ去った時は取り返しがつかない。父親に諭された時には、この身を焼き尽くすほどに自己犠牲の塊となって、母としての義務を果たさんとも思われた辛抱が、腑に落ちてただ肩を落とした女の運命となった瞬間である。
これほど美しい文章があるとは信じがたいほどだが、こんな女の悲しみが長らく積み重なってきた歴史の上にはじめて、有り余るほどの情感と描写力とが生まれたのである。この小説が閨秀小説(けいしゅうしょうせつ、女流文学のこと)の一編として発表されたのは1895年(明治28年)の暮れであった。女の忍従の歴史は、どれほど美しくとも過去の思い出として閉じられるべき一頁であることが分かるだろう。
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