イエという概念がごく少数の伝統芸能であるとか、商売を家系図の下へ下へと相続していく人たち以外に意味を持たなくなった現代において、女性の実家回帰の流れがあることは不思議ではない。ちょうど何年か前に、選択的夫婦別姓制度の導入を推進する議連が出来たのでそこで講演してほしいと言われ、賛成派の自民党議員を相手に講演した。そこでわたしが強調したのは、お墓と家の問題であった。
少子化で一人っ子が増えただけでなく、結婚年齢が上がったため女性も自分の生まれながらの姓にずっと馴染んでおり、その名前で家やお墓を相続できないことに違和感を覚えるようになってきている。選択的夫婦別姓推進論者の女性政治家が二世、三世であることは珍しくない。その場合は政治家という家業を継ぐわけだから、味噌蔵や酒屋と同様に、○○商店という看板は大事だ。
実家回帰の流れは、個人主義的なリベラル化の要素ももちろんあるけれども、戦後のイエ制度の正式な取り壊しから何十年もたって、ようやくほんとうに残ったもののなかから「実家」(さと)が拾い上げられ、志向された側面が大きいとわたしは思っている。家族、というとき、必ずしも行く末が確実ではない目の前の新郎よりも、実家の方が確かなものであるという実感があるからではなかろうか。
誰もたった一人では生きられない。わたしにとってはお腹を痛めて産んだ我が子がまず大切であるし、実家の絆に支えられてそこへ回帰していく人にとって、故郷の墓のある風景を手放す気にならないのに男も女も変わりはないということだ。
家族からも切り離され、あるいは交流することを肯(がえ)んじ得ないような人々であった場合、人は他人に絆を求める。同好の士であったり、寒空の下肩を寄せ合うような関係であったり、あるいは到底友好的とはいえないような関係であっても、袖が擦れ合い、ときに暴力的な摩擦が生じることへの渇望があったりする。
駅中で他人にわざとぶつかったり、寂しさ故に暴言を吐き、注目を集めようとする人もいる。その怒りがなぜか外へ外へと向けられているのは、自分ひとりや内なる人間関係の中で満たされえぬものがあるからだ。頭の中に十分な夢想するための空間の広がりがないとき、家族や身近な人に思いを満たしてもらえないとき、己の鬱屈(うっくつ)を打ち破り、外へ蹴り出していこうとする衝動が生じる。たいていの若者はそうした思春期にありがちな周囲との不和を、社会に組み込まれそこに意義を見出すことで乗り越えてゆくものだが、それでも時に同じような衝動に駆られる大人もいるだろう。
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人間には、家族をはじめとする人との絆と、ひとりだけの夢想する空間が両方とも必要だ。ファンタジーが素晴らしいのはそういうところだ。日常と非日常との往復は、その外郭さえ不明瞭な「個」というものを、より確かな存在として際立たせる効果がある。誰かの創り上げたファンタジーに浸り、その登場人物に自らを投影することで、他者の想いを自らのものとする。自らをそのキャラクターの内に失くしているようでいて、実は日常生活においては曖昧な個たる己の新鮮な心持ちを取り戻しているのである。
家庭の中における女性は、そこがあまりに濃密な「役割」を求める空気に満たされており、やらなければいけないことが詰まっていると感じるため、ひとりでいる時間や心の余裕を手にできないかもしれない。
さあ、お米を研がなくちゃ。蛇口の水をざあざあと出して手早く米を洗ったり、持ち物を持っているか出掛ける間際の子どもに確認したり、頼んだのに不注意で洗われていなかった風呂をごしごしと腹を立てながらスポンジで擦ったり、脊髄反射的なその動きの数々を止めて、居間の方から台所に向かって良く聴き取れない言葉を投げて寄越し、無意識にせよ自分を呼び立てようとする家族に一つ一つ反応することを止めて、忙しく夕食の準備をするのも止めて、ひとりであることに向き合う。
女が思うほど実際に男は無力ではないし、庇護すべき対象でもないうえ、子どもも本当は幾つかになれば自分で何でもできるのであるから、すべてに応じられないことをいちいち案ずる必要はないのである。己が望むときに常に受容されたいという欲求は弱さの表明であり、その弱さを周囲は気遣ってやることも必要だろうけれど、家族や絆が大事だからこそ、ひとりだけの空間を守っておくことにも意味がある。
その物理的精神的空間を得てはじめて、女は客体でいることから抜け出し、己を見出して理解を深めてゆく。たったひとりの部屋をもつだけで、どれほど自由になることだろうか。本があり、映画があり、音楽があり、野山があり、海辺があることでどれだけの空間を頭の中に作り出せることだろう。そこにはいつも無限の時の広がりがあり、そして世界と同じだけの大きさの「私」という存在がいる。
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