6月24日(日)に「森村誠一ミステリースペシャル ガラスの密室」(夜9:00-11:05、テレビ朝日系)が放送。長く支持されてきた「終着駅シリーズ」で第1作からメガホンを取ってきた池広一夫監督に、最新作「ガラスの密室」について思いを聞いた。
1929年生まれ、東京都出身の池広監督は、映画会社「大映」の重役を務める父を持ち、撮影所のすぐそばで育ったからだと、監督人生の出発点を振り返る。
家が撮影所に近かったものですから、よく監督連中が集まって闇の“どぶろく”を飲んでいたんです(笑)。僕は大学時代から映画研究会にいたので、学生の時分からシナリオを書いて監督たちに見てもらっていましたね。
ところが、父は僕が映画監督になるのは大反対。反対されているうちに各社が募集を締め切ってしまい、諦めていたところ、“大映京都”が臨時で助監督を募集したんです。最後のチャンスだから受けさせてくれと父に頼みこんで、応募したらなんとか通った。そのなれの果てが、今の自分です(笑)。
――助監督として溝口健二、市川崑、森一生ら多数の先輩に師事し、1960年に「薔薇大名」で監督デビュー。しかし、2作目の「天下あやつり組」が大映の社長ら有名人を風刺した作品だったことから上層部の怒りを買い、助監督に降格。窮地に陥った監督を救ったのは、時の大スター・市川雷蔵さんでした。
社長には「こんな不愉快な映画、見たことがない」とボロクソに言われてね。悔しくて悲しくて、もう会社も辞めようと思っていたのですが、森一生監督が遊軍として使ってくれて、たまたま「大菩薩峠」という作品の“B班”(※メインの撮影チームを補完するために構成された別班)として那智の滝を撮りに行ったんです。
パンツ一丁になって滝壺の下まで入れてもらって、ハイスピードカメラで撮りました。ハイスピードは、今ではよく使われますが、当時は斬新だったんですね。そのラッシュを見ていた市川雷蔵が、「こんな滝の撮り方は見たことがない」と驚いてね…。
“雷ちゃん“とは、市川崑さん監督の「炎上」(1958年)に助監督でついていた頃から仲は良かったのですが、ラッシュから1週間後ぐらいだったかな。雷ちゃんが僕の家に来て「池ちゃん、次回作の監督をやってくれ」と言うんです。
社長は激怒したままだし、「役者に言われて撮るのは嫌だ」と断ったら、「僕は今、ものが言える立場にいる。今は僕を利用してくれたらいいじゃないか。池ちゃんがえらくなったら今度は僕が池ちゃんを利用させてもらうから」と…。
――雷蔵さん直々の指名により「沓掛時次郎」(1961年)を監督。それが新たな股旅映画として評価され、再び映画監督としての人生を歩み始めます。
人生、何がどうなるかわかりませんね。よく“棚からぼた餅”といいますが、でも例えぼた餅が落ちてきても、棚の下にいないと取ることはできないですからね。当時は一応頑張って棚の下にいたんだなと、今ではそう思っています(笑)。
その後、雷ちゃんの主演シリーズで打ち切り寸前だった「眠狂四郎」の第4作「眠狂四郎 女妖剣」を1964年に撮ったのですが、これが大ヒット。「狂四郎がこれで生き延びた!」とほっとしたし、雷ちゃんに恩返しができたなと思えてうれしかったですね。
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