――沖縄で人気の護得久栄昇の誕生秘話を教えてください
あれは、地元の喜屋武で生活をしていく中で発見した、三線や琉球舞踊の先生方の結集です。いつも不思議に思うのは、三線の先生たちが偉そうというか威張っているんですよ! でも子どもたちは先生たちの前で手を付いて、「宜しくお願いします」と挨拶すると、先生たちは挨拶を返すわけでも無く「はい、(さっそく)やりなさい!」と。こういう上下関係なのに、表に出るのは踊り手。観客から見たら踊り手が主役なのに、なんであっちが偉そうなんだろうということがずっと不思議だった。
でもそんな人たちも、酒を飲むと、ぐでんぐでんに酔っぱらって、手でオードブルをかき集めるとか愛くるしい人に変わり、そのギャップが面白い。ただ威張っているだけだったらイヤだけど、喜屋武の上下関係は、絶対的では無く、先輩にイタズラ出来るというか。そういう愛くるしい部分を集めたのが護得久栄昇ですね。からかいたいというよりは、愛しているという気持ちが強い。
一番最初にこのキャラを作った時、金城から言われたのは「この役は仲座じゃないかと」。でも僕は最初から金城のイメージでやって来たので「これは絶対俺じゃない!俺がやったらただ怖い人になるだけ。このキャラはみんなからイタズラされる面白さだから」と言った。
――自分の若い頃と今の若手との違いは
自分が若い頃は“沖縄のお笑い”というのがまったく無い状態だった。「沖縄でお笑いなんて…」という状態からスタートし、自分が始めたころは「沖縄でお笑いを始めた人がいるらしいね」の状態までは来ていたが、当時は仕事が無いのは当たり前、ライブをする箱が無いのも当たり前、稽古をする場が無いのも当たり前だった。それを切り開いていって造っていたけど、後輩たちには「めんどくさい事をさせたくないな」という思いでやっている。
今は有り難いことにホールでやらせてもらい、若い芸人もテレビやラジオでも使ってもらって…そしたら今度はそれが当たり前みたいな感じになっている。ハングリーさをもっと持ってほしいという思いもありながら、難儀をさせたくないという思いが過保護になっちゃってるのかなと。もちろん受け皿を作るのは大事だけど、受け皿の作り方として自分たちがフォローして大切に育てるのでは無くて、めんどくさい事は肌で感じさせることも大事なのかなと最近は思っている。
――今回11月に行われる「25周年記念イベント」での関わりは
最近はプロデューサーという立場でやらせてもらっている。去年からなんですけどFECに人が増え、年齢の幅が広がってきているので、若い人とおじさんたちのライブを分けて開催している。そういう年齢層の違いも出てきているので、いろんな方向、それぞれの立ち位置で、いろんな笑いとか、いろんなやりたい事が違ってきている。だからこそ周年では一つになることが大事ですね。
――25周年を迎えましたが、仲座さんの25年後はどういう未来を描いていますか?
67歳か…。僕は最終的に80歳になったときに「コンビで漫才がしていたい」という夢がある。「沖縄のお笑い」はまだまだだと思うので、若手はこれからもっともっと県外に出ていって、沖縄のお笑いを確立してほしい。
沖縄を拠点とした芸人が本土や海外とか行く状態になって、そのうえで若い子たちがテレビで「沖縄でやかましいオジーがいるわけさー」という存在になりたい。「80歳になってもまだ舞台に出て、アンケートの上位とか下位をいったりきたりしている人がいるわけよ」みたいな感じで言われたい。それを叶えるためには、僕らが最低続けていれば。オジーの芸人がいるということで年代の幅が広がるだろうし、若い子も入ってきたら、沖縄のお笑いというのは年齢の幅が広がるし、必然的にファンの数も増えるだろうし、そうなれたら一番うれしい。
立ち上げ当初は、自分たちが切り開いていくという苦労を強いられつつも、地元や後輩たちへの愛情があふれている仲座。これから80歳になっても、元気に漫才を届けてもらいたい。
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