高齢化が進んでいるのに、法規制が追いついておらず、また、車なしで生活できるような環境がまだ整っていない地域もあり、返納しない高齢ドライバーはいまだに多い。そのため、若者は高齢者に白い目を向ける。
運転に限らず、高齢者の言動に対して、「老害」といった侮蔑の言葉を使いながらの批判は、しょっちゅう行われる。
確かに、犯罪者は厳しく罰せられるべきだ。だが、犯罪を起こしていない高齢者でも、ほんの少しでもマナー違反をしたり、ちょっとでも若者に対して上から目線でしゃべったりするだけで、「老害」ということで、犯罪を起こしたのと同じくらいの批判を浴びることがある。年金によって「年上の人を支えてあげている」という気持ちが若者にあるため、その批判は度々エキサイトする。
私自身はもう若者ではないのだが、それでもさらに年上の人に対してイライラしたり、「マナーを守ってくれ」「年下をバカにするな」と思ってしまうことがある。
「でも、こうやって、ただ怒ることが、本当に免許返納の推進に繋がるのかな? ひたすら批判することが、本当に高齢の方とうまく社会を回していくベストな方法なのかな?」という疑問も抱いていた。
映画の主人公なだけあって、エラとジョンは魅力にあふれる。エラはかっこ良く強盗を追い払うし、ジョンはたまに正気に戻って娘に優しい言葉をかけたり妻にコーヒーを淹れたりする。さすがに、観ているこちらはだんだんと夫婦を好きになる。ジョンの病の進行を遅らせるため、エラは毎晩、キャンピングカーの前でスライドショーを上演する。過去の写真を見返して、夫婦の物語を追う。鑑賞者である私たちも追随する。そうして、私たちも夫婦のストーリーに心がくっ付いていく。
普段、私たちは、生活の中で出会うおばあさんやおじいさんに対して、キャラクターや物語をなかなか想像できない。見た目が清潔だったり、関係性がかわいかったり、面白いボケをかましてくれない限り、好意を持てない。
しかし、『ロング,ロングバケーション』では、通りすがり程度の関係である若者たちが、しばしばエラやジョンに寄り添う。
雑談好きのエラの長話や、文学愛好者のジョンの説教くさい話に、旅先で出会う人たちはときに困惑しつつも、耳を傾ける。
ペラペラと自分のことばかりしゃべるエラに引き気味だったコンビニ店員なのに、「ここでヌガーを買うのが習慣だったのに」と残念がりながら手ぶらで出発したエラたちのキャンピングカーの後を、「探したらひとつだけありました」と追いかける。
夜、エラとジョンのスライドショーを面白がって、「一緒に観てもいいですか?」と同席し、ビールを振る舞う若者グループもいる。
カフェでは、ヘミングウェイの話をテーブルで始めたジョンに対して、ウェイトレスが最初はきょとんとした顔をして見せるが、そのあと、ジョンが思い出すことができなかった小説の一節を、すらりと暗唱してみせる。「卒業論文がヘミングウェイでした」と微笑むウェイトレス。そんなウェイトレスにやきもちをやくエラもいい。
私はこのウェイトレスのようでありたい、と思った。
エラもジョンも、善人ではない。どちらかというと、悪人だ。素敵な人生だとしても、清廉潔白な人生ではない。ラストも悪事で終わる。エラの最後の行動は、ひとりよがりで、罪深いことだ。
でも、映画というものは善悪を超えたところにある。
物語やキャラクターが、善悪を揺さぶる。私たちも善悪から離れて深い考えごとができる。この夫婦の行動を肯定しないままで、老いについて考えながら、「良い映画を観たな」とつぶやくことができる。
作家。1978年生まれ。2004年にデビュー。著書に、小説「趣味で腹いっぱい」、エッセイ「文豪お墓まいり記」など。目標は「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。
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