「空⾶ぶタイヤ」と「デス・ウィッシュ」で考える“正義”の定義<映画アドバイザー・ミヤザキタケル連載>

2019/09/20 07:00 配信

映画

『デス・ウィッシュ』(C)2018 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.


フードを被り悪人たちを問答無用で殺すポールは、SNSでの拡散を機に“死神”と呼ばれ始める。悪い奴だけを殺しているため結果オーライなのかもしれないが、悪人は法で裁かれているわけじゃない。けれど、法で裁くためには多くの手順を踏まなければならない。それならば、手荒な手段を用いてでも断罪してしまった方が、さらなる被害者を生まずに済む。目にする角度や立場次第で、それもまたひとつの正義かもしれないと思えてくる。

悪に堕ちるのは容易いが、正義を果たすのは難しい。そこに個人的な思惑や私怨が混じり始めた時点で、正義とは呼び難い歪なモノへと成り下がる可能性も秘めている。果たして万人に共通する正義など存在するのだろうか。『空飛ぶタイヤ』のように信じられる正義がそこにあれば良いが、『デス・ウィッシュ』のように正義のありかが揺れ動く場合、どのように正義をなし、どのように生きていくべきなのだろう。

正義を貫き通すことの大切さ、貫き通すべき正義を維持することの難しさ。二つの作品を通して、あなたの心に宿る正義の真価を問われることになると思います。今すぐ答えは出せずとも、その答えを模索する時間にこそ意義がある。それだけは間違いない。是非セットでご覧いただき、あらゆる可能性を、揺らぐことのない正義を見出してください。

文=ミヤザキタケル


ミヤザキタケル


長野県出身。1986年生まれ。映画アドバイザーとして、映画サイトへの寄稿・ラジオ・web番組・イベントなどに多数出演。『GO』『ファイト・クラブ』『男はつらいよ』とウディ・アレン作品がバイブル。