――そして、オーディションに受かって、いざ上京。
実は上京する日の空港に着くまでは、めちゃめちゃフワフワしていました。今から東京に行くという実感が湧いていなかったんです。高校入学前でしたけど不安はなかったし、空港に向かう車の中でも普段通りでした。
――東京で頑張るぞっていう覚悟ができていたということですか?
それが、空港に着いて母が「頑張ってね」ってハグをしてくれたんですけど、その瞬間に「え、え、ムリ、行きたくないかも」ってなっちゃって。何か急に不安になったのかもしれません。
でも、母が背中をポンと押してくれたので、あらためて東京という最高の地で頑張んなきゃっていう気持ちになりました。
――上京してからのレッスン期間中はどんな思いを抱いていましたか?
今みたいにメンバーと仲がいいわけではないし、その時はこれから戦っていかないといけない仲間という意識が強過ぎてライバル的な気持ちがありました。
当時は、こんなにメンバーのことを好きになるとは思っていなかったです。
――CDデビューまでの1年間で辞めたいと思ったことは?
それがなかったんです。たぶん、苦しいというよりも楽しかったんだと思います。当時の生活は、毎日同じルーティーン。学校の授業が5限か6限かの違いぐらい。
学校を出て、30分か1時間後にはレッスン場に行って、そこで何時間か練習して、家に帰ってご飯を食べてお風呂に入って寝るだけ。そして、翌朝また同じ時間に起きる。
これが1年間ぐらい続きました。だけど、地元の福岡にいた頃から部活をやっていたし、習い事もあったので、常に動いている方が自分には合っているみたいです。つらいと感じたことはなかったんじゃないかなって思います。
――ホームシックにかかったことは?
東京に来て、最初の何カ月かは全然ならなかったです。もちろん、地元の友達と遊びたいっていう思いはあったんですけど、その時は2カ月に1回ぐらいは帰ることができたので、それほど寂しくはなかったですね。
ただ、舞台「PLAY×LIVE『1×0』」が始まってからは大変でした。初めてのお芝居ですし、「プロジェクションマッピングって何や!」って感じだったので(笑)、もうびっくりするぐらい追い込まれてしまったんです。その頃、当時住んでいた家に帰っている途中で急にホームシックになっちゃって。
どんな会話をしたのかは覚えていないんですけど、泣きながら母に電話しました。しかも、家の前で(笑)。
――「PLAY×LIVE『1×0』」で学んだことは大きかったですか?
当時は右も左も分からなかったのでがむしゃらにやっていましたけど、終わってからその存在の大きさに気付きました。
ウォーリー木下さんが演出を担当されていたんですけど、まだまだひよっこの私たちにいろんな難題を与えるんです。それが本当に難しいんですよ。
プロジェクションマッピングは(自分たちの)立ち位置がズレたらダメですし、舞台は始まったら止めることができないから上演中のハプニングにどうやって対処したらいいのかということも学びました。
私を含めてメンバーたちも、かなり鍛えられたと思います。今ではちょっとした立ち位置のズレも感覚で分かるようになってきましたし、ライブ中でもこの子のフォーメーションがちょっとズレているから私がこっちに行けばいいかなって臨機応変に動けるようになりました。それも「PLAY×LIVE『1×0』」で培ったものなのかなと思います。
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