ホロコーストを扱う映画はたくさんあるし、老人の旅の道中に若い人たちが関わっていく映画も多い。
そんな中で、この映画特有のものは、友情の雰囲気だ。
最初、アブラハムの友人というのは、ホロコーストのときに唯一味方になってくれたこの幼馴染だけなのだろうな、と思った。
だが、観続けるうちに、友人というのはもっと広く捉えてもいいのかもしれない、という気になる。
道中、様々な人が絡んでくる。助けてくれる人も現れる。年齢の違う人、性別の違う人、国籍の違う人たちとの交流がある。助けてくれるといっても、いっときのことだし、金をくれるようなことはないし、しばらくすると別れる。道が進めば、いわゆる「敵地」である、ドイツも通り抜けなくてはならない。ドイツ人とも喋る。
もしかしたら、こういうあっさりした関係の人も、「友人」なのかもしれない。
幼馴染、悩み事を心を開いて相談する、がっつりした助け合いをする、そういったことがなくても、私たちは地球で生きている限り、他の人間たちと小さな助け合いをする。
許せない属性をもつ人、どうしても心を開けない相手もいる。そのままで、小さな助け合いをすることもある。
私は、文化人類学者のドイツ人との交流に目を瞠った。彼女(ユリア・ベアホルト)は、アブラハムがパリの鉄道駅で「目的地はポーランドだが、ドイツは通りたくない」と必死で訴えて周りの人たちから笑われているところに遭遇する。同じ電車に乗り、アブラハムに拒絶されながらも、そっと寄り添い、ドイツの地に足を着けない方法を考える。
考えた結果のその方法では抜本的な解決にならないし、ずっと続けることはできない。でも、「あ、これは友人っぽい」と私は感じた。
そう、アブラハムの友人は、あの幼馴染だけではない。たくさんいるのだ。
そう考えると、私にもいるのかもしれない。困った状況のときに助けてくれる人が、私が「敵だ」「許せない」と感じている人たちの中にいるかもしれない。がっつりと仲良くすることがなく、一時しか繋がることがないとしても、その人は「友人」かもしれない。
ホロコーストを扱う作品の多くが、罪や差別とどう向き合うかといった重い雰囲気をまとっているが、『家へ帰ろう』は、そういう見方をするならばライトだ。アブラハムは過酷な経験をしているが、その部分の描写は、アブラハムの語りや夢によってぼんやりと行われており、残酷すぎる描かれ方はされていない。政治的な話も詳しくは語られない。それよりも、淡い交流が描かれる。
ホテルの主人(アンヘラ・モリーナ)、病院の看護師(オルガ・ボラズ)、飛行機で出くわした青年(マルティン・ピロヤンスキー)たちもアブラハムの旅を後押しする。儚い「大人の友情」が人生を彩る。
この世界には戦争もあるが、友情もあるのだ、とこの映画は教えてくれる。
作家。1978年生まれ。2004年にデビュー。著書に、小説「趣味で腹いっぱい」、エッセイ「文豪お墓まいり記」「ブスの自信の持ち方」など。目標は「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。
この記事の関連情報はこちら(WEBサイト ザテレビジョン)