獣神サンダー・ライガーがデビュー当時の苦労話を告白! 「初代タイガーマスクの影はものすごく大きかった」

2019/12/26 18:00 配信

芸能一般

プロレスラーは「やりたがり」!?


獣神サンダー・ライガー


――今回のDVD-BOXで、改めてライガー選手がほとんど大きなけがなく、30年にわたってジュニアの第一線で活躍されてきたことに驚かされますが、あれだけハードな戦いに身を置きながらここまで続けて来られた秘訣はどこにあるのでしょうか?

秘訣ですか…、運が良かったのが一番ですね。けがなんて誰もしようと思ってするわけでもないし、けがの程度もあるじゃないですか。毎日のように試合をやっている中で、足首ひねったり靭帯伸ばしたり、そういうことはレスラーだったら大体経験していますし、骨折とか靭帯断裂とか大きなけがもたくさんある。

その内のどのけがをするかは「運」ですね。本当に「運が良かった」としか言いようがないのと、後はやっぱり親に感謝というのもあります。(大きなけがをしない)頑丈な体に産んでくれた親には感謝したいですね。

獣神サンダー・ライガー


――1994年の「スーパーJカップ」開催や、1997年の「ジュニアヘビー級8冠」をめぐる戦いなど、団体としてはまだまだ「鎖国」的だった中でも、早くから他団体とも積極的に交流されてきましたが、そこにはどのような思いがありましたか?

最初「スーパーJカップ」をやった時は、他団体を「巻き込んだ」というのではなくて、僕たちが子供の頃に行われた「プロレス夢のオールスター戦」(1979年8月26日、日本武道館で開催されたイベント。アントニオ猪木ジャイアント馬場がタッグを組んだ)を僕たちの手でやろうとしていたんです。

僕は夏休みでちょうど東京に遊びに来ていて、その大会を見に行ったんですが、子供ながらにすごく興奮しました。いろんな団体の人たちを招いて座談会をした時に「そういうことを僕たちもやりたいよね」って話になって、「じゃあやろうよ」って勝手に盛り上がった感じです。みんな(面白いことを)やりたがりですから(笑)。

「怒りなくして新日本のリングに上がる価値なし」


「CTU」時代にはこんなコスチュームも!(C)2019 テレビ朝日/新日本プロレスリング


――2000年代中盤には「C.T.U」としてヒールターンされた時期もありましたが、根底にはどこか新日本プロレスの「ストロングスタイル」が揺らいでいたことへの反発もあったような気がします。昭和のプロレスも肌で知っているライガー選手にとって、改めて「ストロングスタイル」とはどういったものでしょうか?

やっぱり新日本プロレスのレスリングって何なのかと言えば、猪木さんが掲げられていた「闘魂」、戦う気持ちなんですよね。誰が何と言おうと俺たちは闘っているんだと。よその団体のスタイルや学生プロレスなど、プロレスにもいろいろありますけど、それが一番違うところなんですね。

「怒りなくして新日本のリングに上がる価値なし」というか、とにかく相手に対して怒る、勝ちに行く、勝負を付ける。そういうスタイルが大事なんだと思います。それが猪木さんの仰る「ストロングスタイル」だと思うし、新日本プロレスの「ストロングスタイル」だと思いますね。