学校の先生も、母親も祖父母も、近所の大人たちも、悪い人ではないのだろうが、やたら厳しく、現代の感覚からすると、「いくらなんでも、この教育はない!」という感じがする。
子どもの話を聞かずに家の手伝いを次々とさせながら「宿題をやりなさい」とお母さんが連呼するシーンや、しつけ論を「たとえ良い子でも叱るところを見つけて叱る」と長尺でおじいさんが喋り続けるシーンなど、理屈も通っていないし、あまりにもひどすぎて、笑えてきた。
それで、これは「大人はひどい」という映画なのではないか、と前半で思った。
でも、そうじゃないな、と後半で思い直した。
なんというか、「これが映画というものだ」という感じがしてきた。
主人公のアハマッドは、多くを語らない。親や大人たちに対して思うことはあるだろうが、まだ幼くて、うまく伝えられない。かと言って、泣いたり怒ったりもしない。不安な表情だけ浮かべて、ひたすら歩く。
色とりどりのドアや窓が美しく、入り組んだ道は立体的で、画面に映える。美しいなあ、と思い、何かしらの意味があるのでは、とこちらは見つめるが、美しさに意味はない。大人たちはひどい振る舞いをするが、悪者ではない。
アハマッドも、つらさは感じているだろうが、大人たちを嫌ってはいない。家仕事に追われたり金策に走ったり病気を患ったりして悩んでいる、普通の人たちなのだ。たぶん、アハマッドも、大人たちの大変さを、なんとなくわかっている。とはいえ、アハマッドが大人たちに従う必要はない。
大人たちの厳しさによってアハマッドが成長するかというと、おそらく、しない。めちゃくちゃな論理で怒られて、世の理不尽さを知るだけだ。
ただ、その「理不尽」が大事なことなのかもしれない。
世の中というのは、理屈ではないのだ。
言葉にできないもやもやが世界を作っている。
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