映画というものは、それを撮るものなのだ。アハマッドのセリフは少ない。大人たちも、怒ったり商売したりはするが、重いセリフや説明するセリフは全然喋らない。風景は長閑で、視点は低く、特別な映像はない。
でも、画面をずっと眺めていると、「理不尽」が美しく流れ、これが世の中だ、という感動が湧いてくる。
子どもだけでなく、大人も毎日、理不尽な目に遭っている。納得できないことで怒られたり、おかしな社会システムに首をかしげたりしている。
大人にとっても、日常は冒険だ。
私は小説家なので、言葉を使って日常を表現するし、綴ることで筋を作る。それだって面白い作業だ。
でも、映画は、言葉で言い表せないことを表現できる。日常というものが、言葉に置き換えられないもので溢れていることを、映像や音楽を組み合わせて時間の流れを作り、表せるのだ。
後半、妙に人間的魅力に溢れたおじいさんが出てくる。このおじいさんはなんなのだろう。これまでの大人と違って、アハマッドの話を聞いてくれる。しばらく一緒に歩く。そのお喋りは、重い話ではないのに、なんだか心が惹かれる。
アハマッドとおじいさんが別れたあと、すうっと、ドアの向こうのおじいさんの生活に沿ってカメラが動く。アハマッドをずっと追ってきたカメラが離れて、おじいさんを追うのだ。
このシーンになんの意味があるのだろう? と不思議に思うが、たぶん、意味はない。でも、妙に惹かれる。「生活」ということだろうか……、とにかく、すごく良いシーンなのだ。
そして、ラストがとにかく良い。グッとくるものがアップで映し出されたあと、すぐにスッと終わって、「ああ、いい映画を観た」という感覚がブワッと湧く。
作家。1978年生まれ。『趣味で腹いっぱい』『リボンの男』、エッセイ『文豪お墓まいり記』『ブスの自信の持ち方』など。目標は「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。
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