山崎ナオコーラが映画をテーマに等身大でつづるエッセイ。第13回は、自分のジェンダーに悩む青年がトランスジェンダーの人々と出会い、自分が居るべき所を見いだしていく、ブロードウェイの若手俳優L・カイン主演のミュージカルヒューマンドラマ『サタデーナイト・チャーチ-夢を歌う場所-』(4月20日[月]よる7:30 WOWOWシネマ)を観る。
5年ほど前、ほんの数回だけだが、教会の礼拝に出た。それは、流産と父の死が重なった頃のことで、喪失感にさいなまれ、何かしらの救いを求めて行ったのだった。
私はほぼ無宗教で生きていて、ときどき、それぞれの宗教の良さそうなところだけつまみ食いしている。正月は神社や寺を参り、旅先では教会やモスクを参拝する。
その中でも、キリスト教には馴染みがあるかもしれない。洗礼は受けていないが、小学生の頃、近所の教会でやっていた日曜礼拝に毎週通っていたので、聖書の話を結構知っており、主の祈りは暗唱できる。そして、14歳まで、寝る前にベッドの横でひざまずいてお祈りしていた。
14歳のある日、急に「神様はいない」という気分になって、祈るのを止めてしまった。そうして、大人になるにつれ、勉強や仕事などでどんどん忙しくなり、神様について考えなくなった。
その後、思考がどんどん合理的になっていった。私は、話し方が論理的で、非科学的なものを信じない。占いも霊も興味が持てない。雑誌の後ろについている占いも読まない。
しかし、流産をしたときに、自分で知らなかった自分が顔を出した。流産というのは珍しい現象ではなく、一定の割合で起こり、多くの場合は子どもの側の遺伝子に問題がある。だが、私は、自分の考えがコントロールできなくなった。「あのとき、祈っていれば良かったんじゃないか?」「妊娠中に持っていると良いとされている、あれを持っていれば良かったんじゃないか?」といった、非科学的なことが次々と頭の中に湧いてきて、止められないのだ。
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