東京・南青山に生まれ、西麻布で育った松本。中学時代にビートルズを聴いたことがきっかけで、音楽の世界観が変わったという。
そして大学時代、日本語歌詞をロックに乗せた先駆的なバンド・はっぴいえんどが誕生。メンバーは細野晴臣、大滝詠一、鈴木茂で、松本はドラムを担当した。
だが、はっぴいえんどは活動期間わずか3年ほどで解散。その後、作詞家の道を選ぶことになった。
作詞家へ転向後、「夏色のおもいで」(チューリップ)、「ポケットいっぱいの秘密」(アグネス・チャン)、そして「木綿のハンカチーフ」と続けざまにヒットを飛ばした松本。
「(解散は)はっぴいえんどじゃなかったけど、作詞家のスタートは、はっぴいスタートだったわけですね?」という石橋だが、当時はそうでもなかったと松本は答える。
以降、「スニーカーぶる~す」(近藤真彦)、「ルビーの指環」、「ハイスクールララバイ」(イモ欽トリオ)など、次々とミリオンセラーを世に送り出し、そのバリエーションに石橋は「松本さんの脳の中はどういう引き出しになっているんですか?」と質問。
また、松本が「(ずっと)この人と戦うんだろうな」と意識したライバルについても明かす。
1981年には「白いパラソル」で、初めて松田聖子の楽曲の作詞を担当。その後も詞を書くことになり、特に「赤いスイートピー」は、当時アイドルNo.1だった松田の転機となり、代表曲にもなったが、その誕生の裏側には、はっぴいえんど時代の体験が生かされていた。
1970年代、1980年代と駆け抜けてきた松本。だが、1990年代に入ると突如、詞を書くことをやめてしまう。そして7年のブランクの後に書いたのが、松本自身最大のヒット曲となるKinKi Kidsのデビュー曲「硝子の少年」。
「81年のキャリアハイを、97年に(自ら)またキャリアハイにするっていう!」と驚く石橋に、「そう」とさらっと答える松本。自ら“電源をオフ”にした理由や、ブランク時の7年間、さらに今までで1番うれしかったことを語る。
ある時期から、作詞の依頼を受ける時点で常に「条件はミリオン」だったとのこと。そのプレッシャーの日々も振り返り、本当につらかったこと、元はっぴいえんどのメンバーでもあり数々のヒット曲を共に生み出した大滝との思い出、“天才”だと尊敬する筒美京平との楽曲作りの秘話も明かす。
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