「自分がやったことで長崎に原爆が投下されたかもしれない」戦争の記憶に今も苦しむ男性<九州沖縄ドキュメント ムーブ>

2020/10/24 05:00 配信

芸能一般

「九州沖縄ドキュメント ムーブ」10月25日(日)放送「消えない黒煙 ~ 原爆はなぜ長崎へ ~」より

JNN九州沖縄7局のブロックネットで放送されているドキュメンタリー番組「九州沖縄ドキュメント ムーブ」(毎週日曜朝5:15RKB毎日放送、JNN系列九州各局でオンエア)。10月25日(日)はRKB毎日放送製作の「消えない黒煙 ~ 原爆はなぜ長崎へ ~」を放送する。

「自分がやったことで長崎に原爆が投下されたかもしれない」。そう語る宮代暁さん(92歳)。終戦から75年が過ぎた今もその思いは消えない。

宮代さんは長崎に原爆が投下された1945年8月9日、B29の攻撃を防ぐため、北九州市の八幡製鉄所でコールタールを燃やして煙幕を張ったという。

当初、米軍の第1目標は北九州市小倉だったが視界不良で長崎に変更。その原因はこれまで天候と前日の空襲の煙とされてきた。

当時16歳だった宮代さんは8月9日の朝、空襲警報を聞いた上司の命令で煙幕装置に点火。空を覆い隠すほどの黒煙が上がったことを確認し、地下壕へ避難した。それから約30分後、新型爆弾で長崎が攻撃されたことを知る。米軍資料には原爆投下を3回試みたが目標が「もやと煙」で見えず、第2目標だった長崎への攻撃を決定したとある。

煙幕が小倉への原爆投下の見送りに影響したかは分からない。長崎では約15万人が被爆直後に死傷した。

宮代さんら煙幕作戦に携わった人たちはその事実を語ることができず戦後を生きてきた。「暗たんたる気持ち、長崎の人に迷惑をかけた」。

戦後、一度も長崎の地を踏むことはなかった宮代さん。祖父に代わり、孫娘が母と共に長崎を訪れた。その目に映った長崎の今と過去とは?

終戦から75年を経過した今も重い記憶を背負い生きる宮代さんと家族を通して戦争の罪を問う。