1月15日(木)に放送される津田大介がMCを務める「津田大介 日本にプラス」(CSテレ朝チャンネル2)にて、ことし創部50周年の節目を迎え、悲願のJ1昇格を果たしたサッカーJリーグの長野・松本山雅FCの快進撃の秘密を津田が社長の大月弘士氏に直撃。平均1万2733人という、ダントツの入場者を記録した同クラブがJ2在籍わずか3年でJ1昇格するまで急成長した理由は何なのか、津田ならではの視点で切り込む。
松本山雅FCは、今からちょうど半世紀前に当たる'65年に「山雅サッカークラブ」として創部された伝統あるクラブチーム。他のJ1ビッグクラブのように大企業の経営母体もない松本山雅がなぜ地域から支えられ、力をつけたのか…。今回、番組では10年前まで観客2人だったクラブによる奇跡の快進撃と、市民に愛される秘密を密着取材している。ちなみに、チーム名にもなっている“山雅”という名前の由来は長野のJR松本駅前にある喫茶店“山雅”から。“サッカー不毛の地”とされる長野だが、発端は'02年の日韓ワールドカップ開催時、パラグアイ代表チームがキャンプ地として松本に拠点を置き、汗を流したことから始まる。そこで、同国代表の名GKチラベルトが「なんでこんな立派なスタジアムがあるのにプロチームはないのか?」と言い放ったことからプロチーム発足へと急展開した。
その後、同じく日韓W杯で日本代表DFとして活躍していた松田直樹氏に白羽の矢を立て、「当たって砕けろ」の精神で移籍のオファー。松田氏が入団し、組織的にかつ精神的にチームの補強を図り、やがて実を結んでいった。しかし、'11年8月、松田氏は練習中に突然倒れ、“急性心筋梗塞”で逝去(享年34)してしまった。チームは偉大な存在を失った戸惑いと、それでも前進しなければならないという不退転の気持ちでチームスタッフ全員が「直樹のために!」という思いで踏ん張り、山雅はJ2へ昇格。翌'12年、元北京オリンピック監督の反町康治氏を監督に据えると12位→7位('13年)→2位('14年)と成績は急上昇。創部50周年のことしついに“悲願のJ1昇格”を果たした。こんなチームのシンデレラストーリーに、番組MC津田は「映画になりそうなストーリー!」と驚嘆していた。
そんな奇跡のチームを運営する大月社長は、J1残留はもとより、ホームスタジアムの改善点やユース世代の活性化など、既に将来のいくつかの課題を挙げながらも、親会社がない中で市民サッカークラブがJ2在籍わずか3年でJ1昇格を果たせたこと、10年前まで観客2人だったクラブが市民に愛され、奇跡の快進撃を成し遂げられたこと、J2の全22チーム中のダントツの観客動員などからその経済効果が年間43億円もあるということなどその秘密も熱く語った。
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