【テレビの開拓者たち / 小山薫堂】人々の“共感”をどう作っていくかがテレビの課題

2017/04/16 20:00 配信

芸能一般 インタビュー

80年代半ば、大学在学中に「11PM」(’65~’90年日本テレビ系)で放送作家としてデビューし、90年代以降は、フジテレビの深夜番組の“マーケティング三部作”といわれた「マーケティング天国」(’88~’90年)「カノッサの屈辱」(’90~’91年)「TVブックメーカー」(’91~’92年)、そして絢爛豪華な料理対決番組「料理の鉄人」(’93~’99年フジ系)などなど、これまでにない革新的なスタイルの番組の企画・構成を数多く手掛けてきた小山薫堂。近年は、映画「おくりびと」の脚本で数々の映画賞を受賞し、さらに熊本県のPRマスコットキャラクター「くまモン」のほか、イベントや商品の企画・プロデュースなど、実に幅広い活動を展開するクリエーターだ。そんな小山氏に、現在放送中の「小山薫堂 東京会議」をはじめとするテレビ番組作りに懸ける思いや、放送作家としてのポリシーについて、改めて語ってもらった。

「カノッサの屈辱」の企画意図は“女の子を口説くため”(笑)


こやま・くんどう=1964年6月23日生まれ、熊本県出身


──小山さんが初めて放送作家として携わった番組は?

「最初は『11PM』だったんですけど、そのときはまだ全然ペーペーで。作家としてちゃんと参加できたなと思ったのは、『メリー・クリスマス・ショー』(’86年日本テレビ系)という音楽番組です。当時、僕はまだ大学4年生だったんですけど、僕をかわいがってくれていた先輩の作家が声を掛けてくれて」

――桑田佳祐さんの呼び掛けの下、松任谷由実さん、忌野清志郎さんといった、そうそうたる顔触れのアーティストが集まった伝説の番組ですね。

「そうですね、あの番組を経験したことで、テレビってこんなに多くの人を感動させることができるんだ、ということを実感できました。放送作家って素敵な仕事だな、面白いなと」

──その後、フジテレビの深夜番組を数多く手掛けられるようになるわけですが、特に「カノッサの屈辱」は、日本のサブカルチャーの歴史を“世界史”風に語る、というアカデミックなスタイルがユニークでした。

「あれはそもそも、ホイチョイ(・プロダクションズ)の馬場康夫さんが、会議中に“スキー”の歴史を語り始めたところから生まれた企画なんですよ。『スキーというのは、板もウェアもどんどんモデルチェンジしてて、10年前のスキー板なんて“ダサい”って言われちゃうんだよ』という馬場さんの話から、じゃあその歴史を振り返る番組を作ろう、ということになって。

フジテレビでは当時、小牧次郎さん、金光修さん、石原隆さんといった方々が、深夜枠の“編集長”を務められていて、本当にセンスがある方ばかりだったんです。例えば、石原さんは番組のタイトルを考えるのが得意な方で、『昔、世界史の授業で“カノッサの屈辱”って習ったけど、どういう事件だったか誰も知らないよね。でも、キャッチーでインパクトのある言葉だから、それをタイトルにしよう』と言い出して(笑)。普通だったら『ナントカの世界史』みたいな分かりやすいタイトルを付けそうなものじゃないですか。当時はまだ、深夜の時間帯で番組をヒットさせようという考えがあまりなかったから、こういう意味不明のタイトルを付けられたのかもしれませんね(笑)。内容的にも、あの時代だからこそできた番組だったと思います。今は著作権の扱いも厳しいし、パロディーをやるのもなかなか難しいですから」

――90年代初めのテレビ業界の“自由さ”が窺われます(笑)。

「『カノッサ』って、本来の番組の企画意図を突き詰めていくと、要するに“女の子を口説くため”なんですよ(笑)。女の子とご飯を食べたりするときにおしゃべりのネタになる、という。僕はもともと個人的に、“情報”や“流通”に非常に興味があるので、それをネタに番組で遊べたのはすごく楽しかったですね」

関連人物