タレント・女優として活躍し、昨年は初のエッセイ集『母』が話題となった青木さやか。『母』に描いた自身の母との関係に悩んだ過去を乗り越え、現在は中学生になった娘を育てるシングルマザーである。最愛の娘との関係を見つめる新連載の第2回は、出産する前後の思い出がテーマ。意外な人物が登場する。
2007年。34歳のわたしは一人暮らしをしていた。低層階のマンションで現代的な長屋のようなところであった。都心からは少し離れ、環八を越えてしばらく行ったところにあり、仕事場から離れれば離れるほどホッとした。マンションはメゾネットになっていて、下の階はリビング、上に寝室があった。ベッドから窓をみると空しかみえなかった。そこでボーっと手が届きそうな雲を見ながら眠るのが好きだった。
独身時代は仕事が忙しく夜中までのことが多くて、ご近所付き合いなんて頭の片隅にもなく、お隣さんと顔を合わせることさえ希望していなかった。
ある日、リビングのソファでダラダラしていると、庭からうちに向かって
「さやか、さやか!」
とよぶ声が聞こえてきた。カーテンは閉めていたが、窓を開けていたので、その声はしっかりと聞こえてきた。柔らかい男性の声だった。大体わたしを「さやか」と呼び捨てにするのは、学生時代の友人か、キャスターの関口宏さんくらいのもんだ。しかし、そのどちらでもない。マンションの入り口はオートロックになっているので不審者ではないだろうが、わたしは無視を決め込んだ。だが「さやかさやか」と呼ぶ声は止まず仕方なしにカーテンを開けてみると、そこには、なんと、あのセイン・カミュがいた。さんまのからくりテレビに出てたセイン・カミュさんがいる。この人は間違いなくセイン・カミュで、わたしに向かって笑顔を向けている。
どうやら同じマンションに住んでいるらしい。初対面のはずだが。いや、もしや古い友人だったのかと錯覚させるほどのフレンドリーさである。
「はい、お疲れ様です」
わたしは、芸能界の先輩に丁寧に挨拶をした。マンションで、お疲れ様です、もないもんだが。
「さやか、元気?」
はじめまして、の前に元気かどうかを問われる不思議。
「はい、まあ、元気だったり、元気じゃなかったり、します、日に、よります」
無駄に正確に答えるわたし。
「さやか!バーベキューしよう」
「え」
「いま、そこでやってるから」
マンションの前には共用の庭が広がっている。
「あ、ありがとうございます。いま、ちょっと休んでまして、はい、また。ありがとうございます」
「大丈夫、夜までやってるから、休んでからおいで」
夜まで庭でバーベキューやってるんかい!
本当は誰にも会いたくないのだ。
そういえば、このマンションは朝から日が暮れるまで、ずーっと子どもが庭で騒ぐ声が聞こえる。家にいる時は朝も昼も寝たいのに。驚くほど甲高い子どものエネルギーの切れない声たちに対して「お願い静かにして」と切望するが、それを思うなんて、まさか口に出す、なんてことをしてはならない、という、これが常識だろうということもわかる。子どもの声がうるさい、だなんて人間失格だと思われるだろう。だがうるさいもんは仕方ない。こっちは寝たいのだ。寝る時は耳栓をした。そういえばニュースでやっていた、保育園の声がうるさいと訴えたおじさんがテレビのコメンテーターの人に非難されていた。もしわたしがコメンテーターでいたとしたら、その非難をどんな顔して聞いていただろう。あるいは頷きながらそうですよねみたいな顔していたかも。人間大失格。
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