「普段はただのいっちゃん。『役』を取ればただの『者』ですから」
バラエティ番組などで見る市村正親はいつだって明るく朗らか。誰に対しても壁がなく気さく。「はつらつ」という言葉はこの人のためにあるのではないかと思えてくる。2024年5月19日放送の「だれかtoなかい」(フジテレビ系)に出演したときもそうだった。なぜそんなふうにしていられるのかと司会の中居正広から問われ答えたのが冒頭の言葉だった。謙虚さと役者のプライドがうかがえる言葉だ。
市村正親は、21歳から24歳までの3年間、「水戸黄門」(TBS系)などでもおなじみの名優・西村晃の付き人をやっていた。そこでは様々なことを教わったが、最後に教わったのがそれだった。西村から「いっちゃん」と呼ばれていた市村は、付き人を卒業する際、こう言われた。
「いいかい、いっちゃん、いずれ取材が来たりラジオの番組とかに出るときに、あなたは黙ってたら仕事になんないからね。気取ってないでいっぱい喋りなさい」
斜に構えて多くを語らない役者は確かにカッコいいかもしれないし、当時の役者はそれが主流。けれど、市村の根の明るさを感じていたであろう西村は、新しいタイプの役者像を市村に託したのかもしれない。
市村正親が役者を志したのは、高校生のとき。木下順二作の舞台「オットーと呼ばれる日本人」を見て衝撃を受け、「激しい人生を生きる役者という職業をいいなと思い」(「リアルサウンド」2024年2月9日)役者を志し、舞台芸術学院に進学。その後、付き人になった。付き人を卒業した市村は、1973年、「イエス・キリスト=スーパースター」(のちに「ジーザス・クライスト=スーパースター」に改題)の端役を狙って、劇団四季のオーディションを受けると合格。ヘロデ王役としてデビューした。
このとき、主役のイエス役としてデビューしたのが、その後、長きにわたりライバルであり、盟友となる鹿賀丈史だった。このときから、市村は「芝居に飢えているというか『俺はとにかく舞台に早く出るんだ』というにおいが稽古の時からプンプンしていた」と鹿賀は回想している(「読売新聞オンライン」2023年7月29日)。
演出の浅利慶太からは、「クレソン」即ち、添え物の野菜に喩えられ、「丈史がステーキで俺はクレソンなのか」と悔しい思いもしたが、鹿賀からすると、市村の存在感やパワーは圧倒的で、彼が舞台に出てくると客の視線はすべて市村に注がれてしまい、「あれ、俺、主役なのにな?」と思ったこともあったという(同)。そうして刺激し合いながら、劇団を代表する看板役者になっていった。