戦後日本を代表する女優として活躍した乙羽信子。2024年は乙羽の生誕100周年を数える年で、CS放送・衛星劇場では「乙羽信子 生誕100年記念特集」を9月に放送する。自ら波をかき分けて進んだ乙羽の生涯が垣間見える作品の“凄み”を、いま改めて解剖していく。
橋田壽賀子脚本のNHK連続テレビ小説「おしん」(1983年)で広く顔を知られる乙羽。主人公おしんは貧農から奉公に出され、経営者として成り上がる。おしんの生涯を描く同作において、乙羽は壮年期の姿を重みのある演技で表現。力強く、朗らかで、みんなに好かれる女性像を見事演じ切った乙羽は、その後も数多くの作品で存在感のある演技を見せ続けるのだ。
乙羽のルーツは、第27期生として入団した宝塚歌劇団時代にさかのぼる。“戦後の第一期黄金時代”と呼ばれる宝塚の華やかな時代だ。当時の男役トップスターである春日野八千代の相手役に抜擢され、春日野とのコンビが“宝塚の至宝”と呼ばれるほどの人気ぶりを博した乙羽。“雪組”娘役スターの座に上り詰め、宝塚の戦後第一期黄金時代を盛り上げた。
1950年に宝塚を退団すると、大映へと入社。映画女優の道を歩み出す。“百万ドルのえくぼ”として華やかなデビューを飾ったはずが、当初はなかなかヒット作に恵まれずに苦しい時期が続いた。当初は清純派のイメージで売り出されていたものの、1951年の映画「愛妻物語」で結核に抗いつつ夫を支える健気な人妻役を演じることに。
同作は監督を務めた新藤兼人監督の自伝的作品で、脚本家を志す研究生と下宿先の娘が苦楽をともにする…というストーリー。清らかなイメージから一転して“人妻”という役への転身だったが、熟達した演技力によって高い評価を得る。宝塚から続く“娘役”イメージから脱却し、映画界においてもスターという立ち位置を確固たるものする。
その後も1953年「縮図」などでブルーリボン賞主演女優賞、1977年「竹山ひとり旅」で日本アカデミー賞優秀助演女優賞にノミネート。晩年には前述の「おしん」で空前のブームを巻き起こし、紫綬褒章、菊田一夫演劇賞、遺作の「午後の遺言状」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞といった名誉ある賞に選ばれた。
華々しいスター街道を歩んできたように見える乙羽。だが数々の賞で評価を受けた演技は、その数奇なプライベートが関係しているかもしれない。
乙羽が宝塚歌劇団を退団する際、その理由が「娘役に限界を感じ始めた」ことだったというのは広く知られた話だ。自分自身への客観的な視点を持ち、周囲の反対を押し切ってでも自ら進む道を選択してきた乙羽。そうした彼女の自立心を象徴するエピソードは、彼女の数奇な人生を追えばいくつも見つかる。
彼女が進む道を決める際、周囲の反対にあったというパターンは多い。宝塚から映画業界に進むとき、清純派で売っていたのに“人妻”役に挑戦するとき、戦後初めて原爆を直接的に扱った「原爆の子」の出演を決めるとき…。だがそれらのことごとくを振り切り、乙羽は成功を掴んだ。
人からの“見え方”を知りつつ、それでも信じた道をいく乙羽。その姿は晩年に結ばれた夫・新藤兼人監督との私生活にも垣間見える。
新藤監督は妻のある身で、乙羽が演じた「愛妻物語」の妻役は最初の妻がモデルだったという。死別した妻との別れを経験して後妻をもらうのだが、その結婚生活中に乙羽と愛人関係を結んでいた。
20年以上も続いた愛人関係の果て、妻からの申し出で離婚した新藤監督と1978年に結婚。以降、彼女がガンで亡くなるまでの16年間を妻として過ごす。「好かない男が山ほどの砂糖を運んできても、好いた男の塩のほうが甘い」とは、乙羽が自伝で語ったとされる言葉。なんとも情熱的な話だ。
「おしん」に代表される自立した力強い女性像、「裸の島」で演じたボロボロになりながら働く労働者の姿、はたまた子どもも省みずに生きる享楽的な女の役…。彼女がこうした善悪・硬軟を問わず迫真の演技をこなせたのは、間違いなくその生涯の経験がものを言ったのではないだろうか。
そんな乙羽の出演作品が、CS放送・衛星劇場で「乙羽信子 生誕100年記念特集」と題して放送される。乙羽の映画デビュー作である「處女峰」から遺作となった「午後の遺言状」まで、計11作品の放送が決定。テレビ初放送となる「強虫女と弱虫男」と「かげろう」も含め、貴重で充実したラインナップがそろっている。
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