ビートたけし ロングインタビュー「バラエティーはもっと計算して作る時代だと思う」

2017/11/30 11:54 配信

芸能一般

週刊ザテレビジョン創刊35周年のメモリアルとして、本誌を彩ってきたテレビスターたちがテレビとの思い出を語るSPインタビュー企画を連載してきた。今回は最終回にして真打ち登場!! ビートたけしが描くテレビの未来とは? 「『何でレモン持つの?』なんて疑問も持たずに撮られてたけど、雑誌の表紙になるって、それなりにうれしかったよ」と語ってくれた“殿”に、これからのテレビについて聞いてみた!

空前の漫才ブームからのサバイバル


テレビのど真ん中を見てきたビートたけしがテレビを語る撮影=山田大輔/取材・文=magbug/スタイリスト=市村幸子


デビュー以来、常にテレビ界のど真ん中に君臨し続け、第一線を張ってきたビートたけし。芸人、俳優、映画監督と、さまざまな顔を持つ彼が最初に世にその名をとどろかせたのは、27歳で結成した毒舌漫才コンビ、ツービートの片割れとして。’80年代初頭、日本中を席巻した漫才ブームの“台風の目”としてだった。

「漫才ブームのころは、平日テレビの演芸番組を掛け持ちして、土日は地方に営業に行くの。1日2回公演で、その営業が増えると同時にテレビの露出も増えるんで、テレビでやったネタを営業でやると、お客が『見たことある』と思ってるだろうなって感じがあって。だから新幹線や飛行機の中でネタを作るのが、ちょっとキツかった。それでも、キャーキャー言われるのがうれしい時代だから、まぁやってたんだけど、自分は漫才ブームなんて『ブ―ム』って言うくらいだから、いずれなくなるとは感じてたよね。だから俺が一人でしゃべって相方にツッコませるっていう当時のやり方には限界があるなと思ってた。その当時、萩本欽一さんがコント55号として出た後に、形を変えてテレビでメーンの立場で番組を仕切るようになってたんで、俺もあそこに行かなきゃダメだな、と」

その読み通り、ブームは程なくして終了。だが、後に一時代を築く「オレたちひょうきん族」(’81~89年、フジ系)と、前後して始まった初の単独仕事であるラジオ「ビートたけしのオールナイトニッポン」(’81~90年、ニッポン放送)との両輪で、「ツービートのたけし」にとどまらない才能を発揮。裏番組を蹴散らし、お笑い界のトップへと上り詰めていく。

「『―ひょうきん族』は最初の目標が打倒・ドリフ(裏番組のTBS系「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズ)だったから、正反対のことをやろうと。あっちの、作り込んだコントの舞台の生放送という形に対抗して、話がどこに転がっていくか分からない、アドリブ連発の収録スタイルというふうにね。当時のテレビって世間のリアクションも大きくて、番組でウケなかったとき、次の日に街を歩いてると『あいつ、きのうつまんなかった』って言われちゃうの。ウケた翌日は、用もないのに外に出て歩いてたんだけどさ(笑)。で、そうするうちにだんだん中学生くらいの世代から支持されるようになって、ついにドリフを(視聴率競争で)ひっくり返してね。でも、もともとそれしか目標がなかったもんだから、向こうがダメになった後、こっちもすぐダメになっちゃったんだ(笑)」